My funny valentine



小さな座卓の上にたったひとつ、義理チョコがぽつんと置かれている。
それは数時間前に彼の生徒達からもらったもののうちの一つだった。
他にもたくさんのチョコをもらったのだが、そのチョコ以外は全て処分
してしまった。

彼は決して甘いものがキライというわけではないのだが、日本特有の行事で
もらうチョコの数は、彼の処理能力の限界を遥かに超えていた。
全て食べきることが出来ないから、一つも手を付けないで全部捨てる。

それが彼の人間関係における、化学式の解。


「だから、捨てればいいんですけど…」


数式の解から外れたチョコが、彼の心の中に重く圧し掛かる。



「あーーーえーーっと。義理チョコ、ですか。」
「はい…先生方は義理チョコしか受け取れないと聞いていたので。」
「あ、ええ、そうなんですよ。義理チョコ以外は教頭先生から
 きつーーく怒られてしまいます。」


目の前の少女は、「ああ、やっぱり…でも、よかった。」と呟きながら、
少し笑った。それに比べて、自分はどうだろう。キチンと笑えているだろうか。
彼は…若王子は手渡された義理チョコを握り締めながら、そんな事を考えていた。
だから、目の前の少女が一礼をしてその場を辞したことに気が付くのが
一瞬遅れてしまった。無事にチョコを若王子に渡して安堵した少女は、
「それでは失礼します。」と頭を下げ、既に職員室の出口に向かおうと
していたのだった。


「ああ、小波さん!」
「はい?」
「ありがとう、義理チョコ。」
「はい、お口に合うと嬉しいです。」


声を掛けられた少女は小さく振り返り、今度は満面の笑みで笑う。きっと
自分は上手く笑えていなかった。若王子はそう、確信した。ただ、お礼
だけ言えばいいのに、再度義理チョコと口にした自分の顔は…きっと落胆の
色が出ていたことだろう。それに少女が気付かなければいい。若王子は
義理チョコに落胆した自分の心とは別のベクトルの心で、冷静にそんな
ことを考えていた。


「あの時、なんで上手く答えられなかったのかな…」


若王子は座卓に置かれた義理チョコを見ながら考える。
普段だったら、誰にでも好意的に受け取られるフラットな笑顔で
返事が出来たはずなのに。

しかし、自分は義理チョコを受け取った瞬間…

そう、若王子は落胆してしまったのだ。
少女から義理チョコをもらった事実に。
義理チョコをもらって落胆した自分自身に。

落胆する、すなわち自分は少女に期待をしていたのだ。
彼女の心のこもった何かをもらえるのではなかろうかと。
期待があるから、外れれば落ち込みもする。至極当然の結末だ。

例えば、水を分解すれば酸素と水素になるように。
例えば、過酸化水素に二酸化マンガンを入れれば、酸素が発生するように。
それは、中学生でもわかる、簡単な化学式。


「本当に簡単な、化学式。でも……」


もう、そんな化学式、分からないフリするって決めたのに。

だというのに、自分は……。

若王子はそこで思考をシャットダウンする。自分を客観視するベクトルの
心は、これ以上思考を推し進めることを頑なに拒否していた。
そのブラックボックスを開けてしまえば…、きっとまた自分は人に絶望する。
今まで必死でギリギリで守ってきた自分の心が壊れてしまう。そんな確信
めいた答えが出てきてしまう気がしてならなかった。だから、若王子はこれ
以上考えないで済む様、目の前の義理チョコを処分しようと、手に取った。


もし、若王子が冷静であれば。
以前の様に心を凍らせていたのであれば。
チョコレート手に取った時点で、
そのチョコの異変に、気が付いていたのかもしれない。

だが彼は。
落胆していたから。
心が震えていたから。
その感情に、その感情の発露に、怯えていたから。


その瞬間まで、気が付かなかった。


若王子は無造作に、小波にもらった義理チョコの包装をはがす。
燃えるゴミと燃えないゴミを仕分けるぐらいの分別は、まだ彼にも
残っていたからだ。そして、小箱の中身を取り出そうと瞬間、
彼は息をのんだ。

今年流行の1リッチの義理チョコは、無駄に大きなハート型のチョコで。
本当お義理という様に、嘘臭く「LOVE」なんて文字が書かれているのだ。
だというのに、今、若王子の目の前にあるチョコは、小さなトリュフが
四つ。カラフルなアルミカップの中に小さく納まっていた。そして、
その下にやはり小さなメッセージカード。若王子は震えそうになる指先
を、意志の力で押し留めて、ゆっくりとメッセージカードを引き抜いた。


「若王子先生へ

 まずは、ごめんなさい。
 チョコにヘンな細工をしてしまって。

 でも、先生には手作りチョコ、受け取ってほしかったから。
 
 そして、最後に。

 ひとくちでもいいから、食べてもらえると嬉しいです。

                     小波ミナコ」


若王子は、ぞんざいに扱った包装紙を丁寧にたたむと、チョコの箱の横に置く。
良く見れば封緘のシールからして、義理チョコのものとは全く違っている。
自分はそんな事にすら気付か無いぐらい、落胆していたのだ。しかし、今は
彼女に思いを馳せるだけで。彼女が関わった物質が、全て輝いて見える。
世界が逆転したように。土色の世界から、眩い世界へ。彼の心が躍動し始める
のを、若王子はもう、留めることが出来ないと確信する。

若王子はふと、かつて古の数学者が彼の愛した者が立った、その場所の
土塊さえも愛したという話を思い出し、笑みを零しながら呟いた。


「…小波くん、君、すごい。本当に…すごい。今…僕の目にはこの包装紙
 さえ、美しく輝いて見える。すごく…単純なのに、眩いくらい
 美しい…式だね。」


若王子は、そっと小さなトリュフを一粒摘む。そして口の中に入れると、
ゆっくりとゆっくりと、解けていくチョコを…美しい化学式の解である、
小波の真心とともに味わったのだった。




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