「ねぇ、アシュヴィン…ねぇ…ねぇってば。
もう…こんなところで寝たら、風邪引いちゃうよ?」
おやすみの後で
所は千尋の居室、寝台の上。肩を強めに揺すってみたものの、
片肘を付いたまま寝台に横たわるアシュヴィンは、全く起きる気配が無い。
寝台の上に根宮付近の絵図を広げたまま、アシュヴィンは本格的な眠りに
ついてしまったようだ。
「もう…しょうがないなぁ。」
千尋は小さく溜息を付くと、薄絹の上掛を取り出し、そっとアシュヴィンの
体に掛けた。そして、広げてあった絵図を畳むと、寝台の横にあった
小さなテーブルの上に置く。暫く寝台の横で眠りにつくアシュヴィンの
姿を眺めていたのだが…千尋は思い切ってアシュヴィンの側に横たわった。
「…こんなに近くでアシュヴィンの顔をちゃんと見るのって、初めてかも。」
互いの意思疎通不足で派手な喧嘩をした(正確に言えば、千尋が一方的に
切れて、奇跡的にもアシュヴィンが折れた)翌日から、アシュヴィンは
よほどの事がない限り、毎夜必ず千尋の部屋を訪れていた。但し、
手には大量の資料や兵法書を携えて…。そして、アシュヴィンがその日
得た最新の情報を加えて、アシュヴィンの軍の状況、皇の動きなどを
詳細に語ってくれるのだ。そのために資料を広げる大きな机が必要
だったのだが、生憎千尋の寝室には適当な机が無い。本来妃たる者が、
机上演習する必要なんてまるっきりないのだから。
仕方なく、アシュヴィンは千尋の寝台に資料を広げ、必然的に寝転がる
ような形で説明を始めた。千尋が分りやすいように、できる限りゆっくりと
説明してくれたのだが、日によっては時間が無い所為で、直ぐにも
説明が終わってしまう事もあった。しかし、それでも千尋は…千尋を
慮って毎夜足を運んでくれるというアシュヴィンの気遣いが本当に
嬉しかった。戦の話以外、ほとんどしないという事実に、ちょっと
不満が無い訳でもなかったのだが。しかし、皇と戦をするために、
千尋は常世に嫁いだようなもの。こればかりは仕方が無い。
今日も遅い時間まで外出していた所為か、資料を広げたアシュヴィンは、
千尋が二人で飲むためのお茶を入れに行っている間に眠りについてしまった。
普段、人前で居眠りなどするタイプではないので、アシュヴィンは
よほど疲れているのだろう。
「本当によく寝てるなぁ…。……ふふふ…ちょっとぐらい、いいかな。」
千尋は小さく悪戯な笑みを浮かべると、細い指先をアシュヴィンの額へ向ける。
そして、細心の注意を払ってアシュヴィンの髪をそっとかき揚げ、弄んだ。
アシュヴィンに目を覚まされ、何をしているのかと問われたりしたら
返答に困る。だから、そっと…ゆっくりと髪を撫でる。アシュヴィンの髪は
千尋が想像していたよりも柔らかく、手触りが良い。
「なんとなく…男の人って、もっと髪の毛硬いのかと思ってた…。」
そのまま、暫く頭を撫でるように髪を弄っていた千尋だったが、未だ目を
覚ます様子がないアシュヴィンに柔らかい笑みを漏らすと、眼差しを
アシュヴィンの目元へ向けた。普段…全てを威圧し、平伏させる力強い意志が
籠った瞳を長い時間正視することは出来ない。その瞳に見つめられていると、
千尋は全てを見透かされてしまいそうで…怖くて、同時に恥しくなって
きてしまうのだ。この強い眼差しをもった男が、自分の夫であることが誇らしいと、
心の奥底で強く思っていることも気取られていまいそうで。だから、千尋は、
普段は真っ直ぐにアシュヴィンの瞳を見つめる事が出来なかった。
しかし…今は。穏やかな眠りについているこの時だけは。アシュヴィンの
顔をじっと見つめても許される気がしたから。だから…
千尋は、そっとアシュヴィンの瞼に、口付けを落とした。落とした側から、
恥しさのあまり、千尋の顔は朱に染まる。千尋はそのままアシュヴィンの
耳元に唇を寄せると、小さく一言呟き、自分も寝台に横たわり眠りに付いた。
千尋も自身の軍隊の鍛錬や日々の仕事に疲れていたのか、直ぐに深い眠りに
落ちる。暫くして、千尋の寝室に安からか空気が満ちたその時…
「……存外、狸寝入りも悪くない。」
アシュヴィンがゆっくりと瞼を開いた。そして、自分の傍らに眠る千尋を
見つめる。何か楽しい夢でも見ているのだろうか、微かに口の端を上げ
笑みを浮かべたまま眠っている。アシュヴィンは再度目を閉じ、千尋が
口付けを落とした辺りに指を当てた。未だ、千尋が与えた口付けの熱が
残っているような気がしたのだ。
アシュヴィンが千尋の部屋に通って数日。先日派手な喧嘩をして、何とか
仲直りはしたものの、千尋と深く話し合う切欠に事欠いたアシュヴィンは、
事もあろうに話の切欠として自分の仕事を千尋の部屋に持ち込んだ。
そして、失敗した。
確かに、仲直りしたばかりでギクシャクしそうな二人にとって、目先の戦の
話は、今までの諍いやその他の感情を一切排して言葉を交し合える数少ない
話題の一つだったのだが、それはその他の感情を排しすぎた。互いに真剣に
なりすぎてしまうのだ。千尋は、今までアシュヴィンの軍のことを詳しく
知らなかったこともあり、アシュヴィンが与えた資料や情報をそれは
真剣に理解しようとした。そんな真剣な眼差しを見せる千尋を、アシュヴィン
も無碍にすることなど出来る訳も無く、結局アシュヴィンの軍の話や兵法の
話などに花を咲かせる事になってしまうのだ。頭の回転も速く、賢い千尋と
その手の話をするのは悪くは無いが、アシュヴィンの本来望むべきものとは
違う…と、アシュヴィンはなんとかひねり出した時間が無粋な話で終わるたび
に思うのだが、今更手ぶらで千尋の部屋を訪ねることは難しい。
手ぶらで行って、「何しに来たのか」と問われたら返答に困るのだ。
…正直返答自体はアシュヴィンにとって難しく無いのだが、その返答を
聞いた千尋がどう出るかが、読めない。彼女が不快に思ったら…それは、
アシュヴィンも困るのだ。彼女の心をいつも思いやると、ついこの間
約束したばかりなのだから。
そんな理由で本日も根宮付近の絵図を携えて千尋の部屋を訪ねたのだが、
千尋が茶の用意をしている間に、ふと睡魔が襲ってきた。転寝をするほど
のものではないものの、部屋にいるのは千尋のみで、目を瞑って隙を見せて
も大した問題ではないと判断したアシュヴィンは、目を閉じた。千尋が
寝台まできたら、目を開けるつもりでいたのだが、千尋を待っている間に、
アシュヴィンの心の中で、僅かに稚気が蠢いた。寝た振りをして…
急に目を覚まして驚かせてやろうという悪戯心が。そのため、千尋が強く
肩を揺さぶっても、起きずに寝た振りを続けていたのだが…アシュヴィンが
目を開く前に、そっと千尋の細い指先がアシュヴィンの髪に触れた。
今目を覚まして…何度も、何度も、優しく自分の髪を撫でてくれる、
千尋の指先を止める気にはなれず…アシュヴィンは目を開く機会を逸して
しまった。名残惜しくも、千尋の愛撫が止まってしまったその時に目を
開ければよかったのだが、もしかしたら、未だ狸寝入りを続けていれば。
もう少し髪を撫でてくれるかもしれないと、アシュヴィンは微かに、
そんな期待を胸に抱いた。だから…
アシュヴィンは目を開かなかった。そして、その開かれなかった目の上に…
千尋からの優しい口付け。そして、耳元で囁かれた、「おやすみなさい」
という暖かな言葉。
「せめて俺の名を呼んでくれたらな…目を開けて、お前の体を抱きしめて…
深い情欲の海に共に落ちていけたものを。あんなに安からな声で、おやすみ
と言われては……。」
アシュヴィンは溜息混じりに、隣ですやすやと眠る我が妃を見つめた。
そして、お返しとばかりに金色の絹糸を、弄ぶ。しかし、千尋は一向に
起きる気配がない。どうやら、千尋は狸寝入りではないらしい。よほど
楽しい夢でも見ているのだろうか、相変わらず口の端に笑みを浮かべたまま、
千尋は深い眠りに落ちている。そんな千尋の様子に、アシュヴィンはふふ、
と小さな笑みを漏らした。
「どうやら、俺といるより夢の国で遊ぶ方が楽しいと見える。」
千尋の少し短い金色の髪を、そっと耳元にかけてると、アシュヴィンは露に
なった千尋の耳元に唇を寄せ、小さく呟いた。
「おやすみ、我が妃。」
アシュヴィンは千尋を起こさぬよう、静かに寝台を抜け出すと千尋の部屋を
後にしたのだった。
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