喧嘩のきっかけはとても些細なこと。
千尋が嵌めていた、白金でできた花の指輪だった。
自分がやったものではないことに気がついたアシュヴィンが臍を曲げたのは言うまでもなく。

そして、仲直りのきっかけも、些細な……こと。


花の行方


麗らかな春の日差しの中、芳しい花の香りと心地よい疲れに身を任せ、アシュヴィンが喧嘩の
詫び代わりに花々で飾った東屋でまどろんでいた千尋が目を覚ました。隣で千尋を捕らえるように
抱きしめていたアシュヴィンは、先に目を覚ましていたようで、千尋が目を覚ましたことに気がつくと、
千尋の丸みを帯びた肩に一つ二つと口付けを落とす。しかし、口付けた千尋の肌が思いのほか
冷たかったのか、アシュヴィンは少しばかり眉間にしわを寄せて、千尋に問うた。


「さすがに天蓋もなくては、少し冷えるか。寒くはないか、千尋?」
「ええ、大丈夫。だって、ほらアシュヴィンの体がこんなにも熱いから。」
「ふふ……そんなに頬を摺り寄せるな。こそばゆくて仕方がない。」


まるで子猫のように自分の首下に頬を摺り寄せる千尋を、アシュヴィンは笑いながら
強く抱きしめると、一旦千尋の体を手放した。そして、寝台の下に落ちてしまっていた
自身の上着を千尋にかけてやると、寝台から抜け出す。


「そのままでは寒いだろう、千尋。側仕えの者を呼んでこよう。」
「……ねぇ、アシュヴィン。まだ……行かないで。」
「ん……どうした?寒くはないのか?」
「うん。アシュヴィンがいれば…寒くない。」


アシュヴィンを招き入れるように両手を広げて待つ千尋を、無論無碍にする事などできない。
アシュヴィンはすぐさま寝台に潜り込むと、千尋の体を温めるように抱きしめた。
千尋の首下に口付けを落とせば、千尋の肌からはアシュヴィンが与えた花の甘い香りがした。


「やはり、鋼の花よりこちらの花がよかろう。……あれは、処分するのだろう、千尋?」
「え?もう身には着けるつもりはないけれど……執務室とかに飾っておくのもだめ?」
「…………。」


先ほどまで上機嫌だったアシュヴィンの顔が途端に曇った。あまりの機嫌の悪化に、
千尋も驚きの表情を隠せない。確かに、夫以外からもらったアクセサリーを妻が
身に着けるのは気分が悪いと言うのは理解できる。しかし、鋼の花が作られた理由を
考えれば部屋に飾っておくぐらい、大したことではないと思った千尋だったのだが、
不意に結論にたどり着いた。


「ねぇ、アシュヴィン。あのお花、シャニにもらったんだけど……幽宮で、アシュヴィンに報告したよね。」
「……そうだったか?」
「アシュヴィン、今目が泳いだよ。」
「そんな訳なかろう。」
「じゃぁ、なんで私がシャニにお花もらったのか、理由言ってみて。」
「…………。」


それまで、真っ直ぐに千尋を見つめていたアシュヴィンが完全に目を逸らした。
そして、千尋の結論は確信に変わる。


「やっぱり、あの時私の話をまるっきり聞いていなかったんでしょ。シャニは常世の国の復興の証に、
新しい鉱山からとれた石であのお花を作ってくれたんだよ?アシュヴィンが国の為に尽くして……
国が復興してきた証でもあったから、私本当に嬉しかったのに。……その話を、アシュヴィンは
全く聞いていなかったのね。」
「……すまない、考え事をしていてだな。」
「何を考えていたの?」
「いろいろだ。」
「いろいろって?」
「……お前、分かっていて俺に聞いているだろう?」
「何を?」
「っ……分かった。俺の負けだ。俺は、俺が与えた物ではない装飾品を、お前が身につけていたから
腹立たしかったんだ。その事に気をとられていて、一番大切な事を聞き逃していたんだ。……その、俺が悪かった。」
「いつも私の事を考えてくれるって約束したのに……」


千尋が少しばかり芝居がかった表情で呟くと、アシュヴィンは酷く居心地の悪そうな表情を見せた。
そして、観念しましたとばかりに大きなため息を一つつくと、今度は目を逸らさずに真っ直ぐに千尋を見つめる。


「なぁ、千尋。お前の悲しみを癒す為に、俺はどんな願いでも叶える。
あの花についた玉より遙かに高価な宝石だって買ってやるし、お前の足元に跪き、
靴を舐めよと命じられればその通りにしよう。すべてはお前が望むとおり、お前の心のままに。」
「あ、アシュヴィン……」


自分の話を全く聞いていなかった事はかなり残念だったが、そこまで深刻に怒っていた訳では無かった千尋は、
アシュヴィンの真摯な申し出に思わず黙り込んでしまった。正直なところ、話をちゃんと聞いていなかった報いは、
顔に恥ずかしい傷跡を残すという結果により十分なほど受けているのだ。それに、千尋は必要とするもの以外に
とりたてて高価な宝石を欲しいと思ったことも無い。ましてや、最愛の夫に自分の靴を舐めて欲しいなど思う訳もない。
しかし、未だ真っ直ぐに千尋を見つめているアシュヴィンは、千尋が何か望みを伝えない限り納得しそうな気配はなかった。


「どうした、千尋。何か望みはないのか?」
「ええっと……ああ、そうだ。一つだけ、お願いしてもいい?」
「ああ、なんなりと。」
「言葉が欲しい。」
「言葉?」
「ええ、貴方が私を想ってくれているという証の言葉を。」
「言葉が無ければ、俺の想いは証明されないと言うことか?」
「そうじゃないの。」


訝しがるアシュヴィンに、千尋は暖かな微笑を返すと、言葉を続ける。


「私は、アシュヴィンの言葉以外、欲しいものなんて見つからないから。黒き龍を鎮め、
この世界に平和をもたらし、安寧を与えてくれた。そして今は、私の側に寄り添ってくれる。欲しいものは、
全部、全部。もう貴方に貰ってしまったから。でも…貴方の……アシュヴィンの言葉は、どれだけ貰っても、
もっと欲しいと願ってしまうの。だって、貴方の言葉は、何よりも私を満たすから。だから私に囁いて。
貴方の想いの証を……アシュヴィン、お願い。」


そんな千尋の申し出に、アシュヴィンは何か言おうと唇を動かした。しかし、それは言葉にはならず、
アシュヴィンはそのまま黙り込む。随分と長い沈黙が続き、千尋は自分の願いがアシュヴィンの機嫌を
損ねたかと心配になってきたところで、やっとアシュヴィンは再度唇を動かした。


「なぁ、千尋。俺はお前の気持ちをいつも考えると約束した。お前は…俺の気持ちを考えてみたことはあるか?」
「え……」
「伝えきれないんだ、お前を想う気持ちを言葉に表そうとしても。胸の奥底から湧き上がるこの思いは、
お前にどうやって伝えればいい?」
「アシュヴィン……」
「愛している。たった、これだけの言葉にしかならない。だが、本当に、愛している。愛しているんだ、千尋。」


同じ言葉を繰り返しながら、力強く抱きしめてくれるアシュヴィンの胸の中で、千尋は喜びに振るえ、
満たされながらその言葉を聴き続けたのだった。




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