輝かしき未来を夢見た瞳は、
とうの昔に失ってしまったのです。

ええ、だから。

だから、私は。



二度と夢は見ない



午後の柔らかい日差しが降り注ぐ、堅庭の外れ。
何時もは賑やかなその場所に、人の気配は無く。
ただ微かに、柊が読む竹簡が立てる乾いた音が響いていた。

柊が物語を手繰る度に、かた、かたと小さな音が響く。
僅かに目を細め、竹簡に集中している柊の様子を見た千尋は、
堅庭の周りをぐるりと遠回りをして、そっと背後から柊に近づいた。


「忍んで私の元へいらっしゃるのは大変喜ばしいことですが…
 気配を押し殺し、背後から近づくのはあまり良い方法では
 ありませんよ、我が君。」
「えええ!柊、気が付いてたの!?」


千尋の場所から、柊の場所までまだ随分と距離がある。しかし、
くるりと千尋の方に顔を向けた柊は、千尋が近づいて来ていたことなど
先刻承知と言わんばかりの表情で微笑んでいる。


「我が君の王才は、隠しても隠しきれるものではございません。
 神々しき光となり、あまねく土地を照らしておられるのです。
 たとえ直接お姿を見ずとも、その神々しさを肌で感じることなど
 我が君の忠実なる僕である私には、いとも容易いことなのですよ。」
「そ…そうなんだ。」
「わざわざご足労頂かなくても、私に用があるのならばお呼び
 いただければ馳せ参じますものを。」


そう言うと、柊は手早く竹簡をまとめ、千尋の近くまで歩み寄り、
そうするのが当然とばかりに片膝をついて千尋を見上げる。


「我が君、御用命を。」
「え、あ…別にそんな畏まった用事じゃないっていうか…
 最近堅庭で竹簡よく読んでるな〜と…今日はちょっと柊を
 驚かせようと思って背後から近づいてみたんだけど、
 結局また柊には驚かされてしまったね。」
「また、でございますか?」


さも心外そうな顔をする柊の様子に、思わず千尋は笑みを零す。
近くにあった長椅子に腰を下ろすよう柊を促して、自分もその横に
座った。


「だって、いつも柊は私を驚かすじゃない。戦の時の策も
 そうだけど、気が付いたら背後にいるときもあるし。
 風早にストーカー扱いされてたけど、ちょっと一理、ある。」
「ストーカー…とは…その言葉には良い言霊がこもっていない
 ように思われるのですが、我が君。」
「ふふふ。そうだね、でも別に私そんな風に思ってないよ。
 ただ、柊は言葉が巧みで、枯れる事が無い泉の様に湧き出すから、
 たまに何が真実なのか、分らなくなるときがある。
 例えば、眼帯の下の眼が実は見えてました〜なんて言われても
 案外驚かないかもね。」


千尋はふふふ、と笑いを漏らしながら軽口を叩き…そして、瞬時に
自分の放った言の葉に激しい後悔を覚えた。軽口を叩かれた方の
柊は、ただ優しく微笑んで千尋を見つめていただけだった。
言葉の一つもなく、ただ…何かを諦めたような寂しげな眼差しで、
千尋を見つめていただけだった。


「ごめん、柊!!ごめん!!!冗談でも言っていいことじゃなかった。
 本当に、ごめん……」
「いいえ、貴女が謝ることなど、なにひとつも無いのですよ。我が君。
 この疑われし右目も、我が君にご覧いただければ私の真を証明
 できるのですが…醜いものをご覧になっては我が君の御目の毒に
 なるというもの。故に、ご容赦くださいませ…」
「醜いだなんて…私…そんな風に、柊のこと思ったことなんて…」
「私のことでなど、お心を煩わせずともよいのです。さあ、この話は
 この辺りで手打ちにいたしましょう。」
「…証明させて。」
「我が君?」
「私が、柊のこと、そんな風に思っていないと証明させて。」
「…どのように証明なさると、仰るのですか?」
「それは………」


柊は口ごもる千尋を、冷淡な眼差しで見つめていた。既定伝承に
則れば、柊がもう一言、言葉を添えてこの話題を手打ちにすれば
いいだけの話だった。僅かばかりの気重さが千尋には残るが、それは
些細な問題でしかない。物語に紡がれた言葉を、形にしようと
柊が唇を動かした瞬間。右目が…失ったはずの眼が、鈍く疼いた。


「柊の真を見せて。そうしてくれれば、私も私の真を証明するから。」
「……私の、真、とは?」
「眼帯を、外して。」
「………。」


物語に則った言葉を発する機を失った事を理解した柊は、無言のまま
立ち上がり、千尋の目前に跪いた。そして意を決して、眼帯を外すの
と同時に左目を瞑った。柊とて、醜い傷痕を見て歪むであろう千尋の
表情を心を穏やかに見つめていられる自信はなかったのだ。


眼帯が外され、柊の失った眼が外界に晒された瞬間。


微かに、息をのむ音が聞えた。
そして、僅かな沈黙の後。

傷痕に千尋の細やかな指先が触れた。
さらに、間をおかず。

千尋の唇が触れた。
柊が受けた、多大な傷みや苦しみを拭うかのように。
二度、三度と口付けを落とす。


「我が君……」

柊はそっと左目を開けた。すると、そこには、微かに頬を染め、
俯いている千尋がいた。


「ごめんなさい…こんなことしか…思いつかなったの。
 本当に、ごめん…私が酷いことを言ったのに…柊に眼帯を
 外させるなんて…尚更、酷いこと……しちゃったよね…」
「…我が君、本当にお気にならさらずに。日も翳って参りました
 から、お部屋へお送りしますよ。」


柊はやっとのことで既定伝承に紡がれた言葉を口にすると、
千尋の背を押し、堅庭を後にする。そして、千尋を自室まで
送り届けると、薄闇と静寂が支配する書庫へ向かった。
書庫に誰一人、人がいないことを確認すると、夥しい数の竹簡の海へ
しゃがみ込んだ。


「もう、二度と…夢はみない。そう定められた筈でしたが…
 だというのに………」


眼帯の下の眼が疼く。
最早失ってしまったものが。
二度と夢は見ないと決めた眼が。

疼く。
疼く。
疼く……


「いや……それでも、このような傷みは瑣末。既定伝承という
 大河にとっては、取るに足りない一滴に過ぎない。」


柊は鈍い痛みに眉根を寄せながら、吐き捨てるように呟いたのだった。




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