花、一輪。
「いやーほんっとう、可愛いお姫さんだよなぁ。あの子はさ……
華やかな笑みを零すかと思えば、清らかな心遣いを見せたりと。
立てば芍薬、座ればなんとやらどころの話じゃねえわな……」
「……秀吉様、それはもう分かりましたから。そろそろ仕事を始めてください」
秀吉邸のとある一室。主と小姓の間で、先ほどから同じ話が繰り返されていた。
主からは、最近足繁く屋敷に通う明智の妹姫への賛辞。そして、小姓の口から出るは、
仕事を急かす小言のみ。しかし、主があまりに何度も同じ話を繰り返すので、とうとう
小姓の方が深いため息を一つ零して根を上げた。
その隙を縫って、主の明智の姫君への賛辞はまだ続く。
主の女好きはいつものこと。そして、女たちへの賛辞も同様であったが、今回は些か
勝手が違った。賛辞の言葉を紡ぎながらも、不意に主の眼差しが注がれるは一輪の花。
先ほど明智の姫君が訪ねた折、主にと贈った一輪の梔子。華美な花器には似合わぬ
その一輪は、主が人目に付かぬところで愛用していた無骨な茶碗に挿されていた。
そして花に注がれる主の眼差しは、小姓が知るどの眼差しよりも優しい。
その事実に気が付いた小姓は……佐吉は、こほんと一つわざとらしい咳払いをし、
諭すように主に……秀吉に忠言した。
「あまり仕事を溜めてしまっては、姫様がいらっしゃった時にお取次ぎが
出来なくなってしまいます。せっかく花が萎れぬうちに、姫様がお出で
くださったとしても」
「……あーあ、痛いところ突いてくれるなあ、佐吉はさあ。分かった、分かった。
そろそろ書状に目を通すから」
「はい、それではこちらもよろしくお願いします」
「ええ!まだあったのかよ!!」
やっと仕事をする事に同意した秀吉の前に、佐吉は後ろに隠し置いていた書状を
積み増した。恨みがましい眼差しを送る秀吉に尻目に、佐吉は秀吉に一礼をすると
その場を辞した。
「全く、佐吉にしてやられたな……」
積み増された書状を纏めると、秀吉はため息をつきながら文机に向かった。
と、同時にちらりと視線を一輪の花に送る。その花を見るだけで、これから秀吉の
身に起こる厄介事(といっても、大部分は仕事を溜めた秀吉の自業自得なのだが)を
乗り越える気概が沸いてくるのだった。
それは先ほど、明智の姫君が持参した一輪の花。野に咲く健気な一輪の梔子。
他の者が見れば、つまらない贈り物だと笑うかもしれない。しかし、秀吉にとって
はこれ以上はないほど嬉しい贈り物だった。
確かに、梔子の花よりも華美な花や、豪華な贈り物を贈られることは数知れず。
同時に秀吉がそのような物を他者に与えることも数知れず。しかし、それらの
贈り物には多くの打算が含まれていた。
だが、今秀吉の目の前にある花には、それらの打算を感じることが出来なかった。
これは秀吉の機嫌を取るために、わざわざ用意したものではない。そうであれば
もっと秀吉の好みを狙った派手な花を用意するべきであったのだ。それにもかかわらず、
明智の姫君は野に咲く花を、自分に手渡した。
きっと、行く先で愛らしい花があったから摘んだのだろう。心の赴くままに、
彼女の本心に従って。そして、自分にそれを与えたいと思ったから差し出したの
だろう。ただ、その愛らしい花で、他の誰かを楽しませたくて。
その、純粋な思いが嬉しかった。
その、手渡された相手が自分であったことが嬉しかった。
だから、秀吉は花を受け取った際「お、お姫さん…!好き!」と心を純粋に表した。
ただ、生憎と明智の姫君は、秀吉の言葉になんだか難しい顔をしてしまったのだけれども。
その様子をつぶさに思い出すと、秀吉の口元は自然と緩む。秀吉はもう一度
「可愛いお姫さんだよなあ」と呟くと、優しい面差しのまま、仕事のために筆を
取るのだった。
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