君や来し

我や行きけむ

思ほえず

夢か現か寝てか覚めてか



I.現ノ逢瀬



六条の屋敷に、秋の静やかな気配が満ち溢れる。重衡は香を焚き染めたばかり
の衣に身を包むと、すっと濡れ縁に歩み出た。不意に庭に目をやると、中庭に
植えられた草花が、心地よい風に身を委ね、可憐な花を揺らしていた。


「……本当に、静かですね……。」


重衡の口から、思わずそんな言葉が零れ出た。ここ数年来、戦に明け暮れ、
草花を愛でることはおろか、衣に香を焚き染めることさえ疎かになっていた。
人を斬り、寺を焼き、それにすら飽き足らず怨霊を使役するという異常が、
自分達にとっての日常になってから随分と久しい。そして、重衡はこの日常が
未来永劫続くものだと、諦めていた。

ところが、事態は重衡の思わぬ方向へ展開する。五行を体現する対の龍の
神子…源氏の神子と呼ばれる少女…の出現により、怨霊は調伏され、都は平穏
を取り戻した。そしてこれ以上の無益な戦いを望まぬ神子の願いを聞いて、
源氏方が平家との和議を申し出たというのだ。既に配下の兵士はおろか、一族
さえ大部分を怨霊化することで兵力を補っていた平家にとっても、その和議は
願っても無い申し出であった。

いくら戦に勝とうとも、一族郎党全てが人外の者となってしまっては、人と
しての幸いを得ることは出来ない。既に一族としての機能不全が見えていた
還内府こと、将臣にとってはこの好機を逸することは出来なかった。

今日も将臣は、和議の前日であるにも関わらず、和議を万全なものにする
ために、忠度を伴って後白河院の元へ出向いている。そして、その間の
留守居を重衡は申し付けられていた。彼の兄……知盛とともに。


「兄上…」
「呼んだか、重衡。」


思考に沈溺していた重衡は、不意にかけられた声に驚き、大きく後ろを振り
返った。するとそこには、今重衡が丁度思い浮かべていた人物…知盛が戦装束
を身に纏い、真後ろに立っていたのだった。


「あ、兄上…いつから、そこに。」
「クク…さて、な。……遠くにおられる姫君を想うにしては、
 随分と憂い顔をしていたな、重衡。」
「…兄上もお人が悪い。それよりも兄上、……いずこにお出でになるの
 ですか?」


知盛のただならぬ格好に、重衡は目を細め、誰何するような口調で知盛に
尋ねた。しかし、知盛は僅かに口の端を上げるだけで、その問いに答えようと
はしない。ただ、先ほどまで重衡が見つめてた秋の草花を、凪いだ瞳で見つめ
ていた。

重衡は兄の顔を見つめる。同腹であるとはいえ、並みの兄弟に比べて著しく
姿かたちが似る知盛ではあったが、その瞳…その眼差しだけは重衡と似通う
ところがまるでなかった。

風流を嗜み、見目麗しく、帝や姫君たちの覚えも良い。だというのに、
いつも知盛の眼差しは凪いでいた。不意にどこか…遠くを見遣り、そして
つまらなそうな表情を一瞬垣間見せることを、弟である重衡は知っていた。

物心ついた時から、知盛はずっとそうだった。その様子が少し変ったのは
平家が戦いの最中に身を投じた頃だったろうか。しかし、世の流れは急速に
和平へ向かい、知盛の眼差しはまたかつての頃の様に、どこか遠くを見つめて
いる。


「狩りへ行く。」
「…狩り、ですか。」


知盛が遠くを見遣ったまま、一言呟いた。重衡は、ただ、知盛の言葉を
そのまま返す。戦装束を纏った知盛に、何処へ行くのか、何を狩るのかなど
問うことは、酷く無粋な事に思えた。


「お気をつけて、行ってらっしゃいませ。」
「ああ。」


知盛も一言返事を返すと、振り返らずにその場から立ち去る。そんな知盛の
背中を重衡も無言で見送った。すっと伸びた背に、豪奢な戦装束を纏った
知盛の姿を見ていると、美丈夫という言葉が彼のためにあるといっても過言
ではないような気がしてくる。しかし、その姿が見れるのも今日までで、
明日和議がなれば甲冑は直衣に変る。そして知盛はまた、酷くつまらなそうな
顔を、時折見せるのだろう。

彼は人が羨むもの、全てを持っていた。
美貌、知識、名声。
しかし、それら全てを持っていても、彼は満たされることなどなく。

ただ、遠くを見つめていた。

歪んでいる。重衡はそう思う。世の中の型に収まりきることが出来ない兄は
歪んでいるのだと。箍が外れた、乱世の中でだけ、彼は自由に生きることが
出来たのだ。そして今はまた急速に箍が締まり、彼は、歪む。


「美しい故に歪むのか、歪む故に美しいのか…。」


重衡は遠ざかる兄の背中を、僅かばかり眼を細めて見つめていた。


秋の日は釣瓶落とし。先ほどまで木の葉が暖色に染まり、色鮮やかだった森も、
日差しの力を失いつつある今は、色褪せ、薄暗くなり始めていた。涼やかな
空気に満ち溢れる森の中を、望美は一人漫ろ歩きしている。


「そろそろ、帰らないとダメかなぁ…。」


朝、京邸を出立してから随分と時がたっていた。対の神子には東の市へ出かけるといってあったので、多少遅くなっても怪しまれることはないだろうだが、
流石に日が落ちると朔をはじめ、八葉の一同が心配するだろう。

元々は平家の六条の屋敷を訪ねる予定だった。しかし、屋敷の近くまで行って、
望美の気が変った。望美が骨身を削り、平家と源氏の和議を取り付けたこの
時空では知盛と合間見えることはついぞなかったのだ。見ず知らずの女が
平家の屋敷に赴いて直接知盛に会うことが出来るとは到底思えない。

一瞬将臣を利用することも考えたのだが、将臣の性格から察するに、
和議を確かな物にすべく、後白河院の元にでも出向いていることだろう。
豪放磊落そうな性格に見えて、実のところ細やかな精神を併せ持つ将臣
ならば、多分そうする。幼馴染の性格を極めて正確に理解していた望美は、
邸の直前で踵を返し、今いる森に向かった。

森に向かったのは、特に理由があった訳ではなかった。ただ、あの男…
知盛は、境にいるような気がしたのだ。彼岸と此岸の境になるような場所に。


「でも凄いなぁ…歪みが、急速に正されている。」


望美は人気の無い森の中で、大きく腕を伸ばし深呼吸をする。かつて
どの時空でも、この森がこんなにも静寂に包まれていることはなかった。
町外れにあるこの森は、陰気を吸い寄せる性質なのか、野武士に殺された
農民や戦で死んだ武士たちの怨念が滓の様に積み重なり、まるで無間地獄
が如く、際限なく怨霊が現れたのだった。

そして、望美にとってはそれが都合がよかった。わざわざ、怨霊を探しに
足を棒にする必要もなく怨霊を狩れて。森に一歩入れば、自動的に怨霊が
湧き出てくる。剣を構える、剣を振る。解放の言葉と共に調伏する。
一連の動作が、考えなくても出来るように、必死になって剣を振った。
一人でも多くの仲間を救うために。少しでも強くなりたかったから。

不意に、気配が歪んだ。望美は、すいと剣を抜くと、振り向きざまに
剣を振る。すると、望美の一閃によって羽を落とされた蝶が、地面の
上で、最期の足掻きを見せていた。


「ああ、蝶だったんだね。」


望美は足元で足掻く蝶に、すとんと切先を突き立て、止めを刺すと同時に
解放の言葉を口にする。やがて光となる蝶を見つめながら、望美は小首を
傾げ、考える。


「必死に剣を振っていたのは…いつのことだったんだろう。
 随分と前だっけ?それとも割と…最近だっけ?どう……だった
 んだろう……私…。」


何気なく考えたことが、全く思い出せない自分に恐怖を感じながらも、
望美はぎゅっと目を瞑る。あまりに時空を越え過ぎて、自分の中の
記憶が酷くあいまいになっているのだ。それは、多くの人を助けたい…
多くの人の役に立ちたい。そう願って白龍の逆鱗の力を行使してきた
望美が支払った代償の一部だった。分かってる。それは、自分が望んで
そうなったもの。望美はそっと目を開けて、自分の両手を見つめる。


「そうだ、私はここにいる。そして、知盛に答えを聞きに行く。
 …大丈夫……私は今、ここに、いる、から。」


望美は自分にそう言い聞かせると、更に森の奥に進む。今の望美に
とって、それが唯一の…

「のぞみ」

だっだのだ。


がさり、がさりと大きな物音を立てて、男は藪の中を突き進む。
狩るべき獲物が、見つからない。そんな苛立ちが男の立てる物音を
更に大きなものにさせていた。


「クッ…なるほど…もはや、世が泰平なるは動かせざる事実……怨霊も…
 元あるべき場所に還ったか。」


ようやく踏ん切りがついたのか、男は…知盛は最後に力強く藪を払うと、
元来た道へ戻り始めた。明日和議がなれば、平家は源氏の元へ下り、
今在る地位を全て失う。そのこと自体は知盛にとってはどうでもよい
ことであったが、自由に太刀を振ることも…その機会も、明日を境に
未来永劫失うことになる。そんな予感が、知盛を酷く気鬱にさせていた。

それ故に、京で一番怨霊が湧く、澱んだ森まで足を運んでみたのだが、
知盛の予想は大いにはずれ、森の気配は清らかに澄み、一日歩いて
結局雑魚の蝶がほんの二、三匹現れただけに過ぎなかった。
世の中が平和になりつつある今、戦禍の産物である怨念の塊である
怨霊の数は、目に見えて急速に減っているのだ。

知盛は、行きがてら自分が踏み倒した藪をもう一度、通る。がさり、と
大きな物音が立った。


「誰っ!!」


女の声に、思わず、知盛は腰の物に手を添える。しかし、目の前に
は、呆然とした様子の若い女が一人立っているだけだった。

こんな森の奥で人に出会うのことは珍しいことだが、それだけ森も正常に
なったということなのだろう。一人で納得した知盛が女の横を通り
過ぎようとしたとき、女が小さく言葉を漏らした。


「…知盛。」


思わず、知盛は女の方に振り返る。今、確かに女は自分の名を呼んだ。
しかし、まじまじと立ち尽くす女を見つめてみても、皆目何処の女か
思い出せない。思い出すことに飽きた知盛が、再びその場を立ち去ろう
としたとき、女が口を開いた。


「待って!知盛!!答えを…答えを聞かせて。」
「…答え?誰か、人違い……ではないのかな、お嬢さん?」


相手にするつもりはなかった知盛であったが、女のあまりの必死さに
思わず答えを返す。女は知盛の返答に少し悲しそうに目を伏せると、
すっとその手を腰に当てた。


「ああ、そうだね。今の貴方は私を知らない。貴方のために作り上げた
 この世界は、貴方と私を…たった一目さえ、出会わせる事がなかった。」
「……何を、言う?女。」


気狂いの女かと、見切りをつけようと知盛が思った瞬間、女が腰に
下げていた剣を抜いた。知盛は、一瞬息をのむ。女が…自分に切先を
向けたからではない。その女の動作の滑らかさ…舞の動きが如く
緩やかに、女は剣を抜いた。人を殺める道具とは思えぬ優雅さを伴って。

その時、初めて知盛は目の前に立つ女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
先ほどまで悲しげに伏せられていた濃緑の瞳は、今真っ直ぐに知盛に
向けられている。


心臓が跳ねる。

高鳴る鼓動で、思考が止まる。

ただ、真っ直ぐに見つめる。


瞳の中に、業火の揺らめきが見えた。

瞳の中に、彼岸と此岸の狭間にある狂気が見えた。


男の唇から、微かに感嘆の息が漏れた。

女の唇から、ゆっくりと言葉が紡がれた。


「私は、白龍の神子。またの名を源氏の神子。
 知らぬというなら、今直ぐ覚えて。」


キィン、キィンと刀が打ち合う音が森に木霊する。それ以外に聞える
音は、下草を踏みしめる音、二人から吐き出される呼気の音のみ。
会話もなく、研ぎ澄まされた太刀が、互いの急所を狙いあう。


「ああ…あの時と…熊野の夏と…同じだね……」


望美は、ふと思い出す。あの夏、共に柳花苑を舞ったことを。ただの一度
さえ共に舞など舞ったことなどなかったのに、舞台の上で感じた一体感は
今まで感じたことが無いほどのものだった。差し出す腕の動きが重なり、
踏み出す足の動きが重なり、そして呼吸すらも重なる。まるで一つの生き物
になったような一体感。きっとあの時は知盛が望美の動きを読んで、
完全に合わせてくれたのだろう。

そして、その一体感は今も一緒だった。繰り出される太刀、足裁き。
呼吸すらも重なる。ただ、あの時とは違って今度は望美が合わせていた。


そう、合わせていたのだ。

理由は簡単。

本気になれば。

「また」アナタを殺してしまうから。


望美の瞳から、一粒涙が零れた。


知盛がギンッと鈍い音を伴って、力強く刀を打ち付ける。力勝負になれば
肉体的に劣る望美は話にならない。直ぐに、刀を捌き、知盛との間合いを
取る。しかし、瞬時互いの体が近くなった所為で、知盛が望美の異変に
気が付いた。


「何故に……泣く?」
「………。」
「戦うのが怖いか?」


望美に返事は無い。その代わり、知盛の隙を突いて、剣を繰り出す。
加減して止めた剣が、知盛の頬を掠める。一瞬瞠目した知盛であったが、
頬に微かに滲む血を拭うこともなく、口の端すいと持ち上げ笑う。


「ほう……それがお前の答えか。源氏の神子…幾千の怨霊を屠り、
 平家を追い詰めた腕前、確かのようだな。」


知盛の瞳に更なる歓喜の光が宿る。目の前の女は…本気になれば
どれほど強いのだろう。そう考えただけで、肌が粟立ち、甘美な悪寒が
背中に走る。自分の命と引き換えに感じる、極限の世界。この期を逃せば……
きっと二度と見ることが出来ない世界。明日、平家は和議を結び、
知盛は地に刀を置く。故に、引き換える自分の命など惜しくはなかった。
否……きっと、明日があっても惜しくはないだろう。この一瞬のために
命を捧げることに、知盛は全く迷いを感じなかった。

それほどまでに、美しく。
それほどまでに、鮮やかで。

思考の全てを奪う、白い…白い、女の世界。


「お前の本気、見せてもらおう。……行くぞ。」


知盛は渾身の一撃を放つ。大きく振りかぶり、捨て身の覚悟で望美の
間合いに飛び込んだ。しかし、望美は剣を構えもせず、すっと細い
腕を伸ばした。そして、知盛が見知った印を結ぶ。知盛がその印の
意味するところを理解した時には、時既に遅く、知盛の体は己の意思では
微塵も動かす事が出来なくなっていた。


「束縛の術……何故?……これでは…楽しめないだろう?」
「…して、しまうから。」
「…ん?」


少し離れた間合いで小さく呟いた望美の声は聞き取り難い。知盛が微かに
眉をしかめる様を見た望美は、今度ははっきりとした声で言い直した。


「また、貴方を殺してしまうから。」
「また…?」
「うん。また…殺してしまう。」
「何度も…俺を殺したと?」
「…貴方は…信じられないかもしれないけど。貴方の知らない時空で。
 私は貴方を何度も殺した。」
「………。」


知盛にとって俄には信じがたい話であったが、真っ直ぐ見つめる深緑の
瞳には偽りの色は見えない。そして、あの知盛が夢見た眩いまでの世界を
体現する女が、嘘を付くようにも思えなかった。


「龍神の神子…人外の力を有してもなんら不思議は無いか。
 しかし……これまで何度も殺してくれたんだろう?ならば、
 何故今世では太刀を止める?」
「……今までの貴方を、殺したかったわけじゃない。だから、
 貴方のために…貴方と戦わなくてもいい世界を築き上げたの。」
「俺のために…世界を、築き上げた…だと?」
「そうだよ。」
「ク……大層なことだな。しかし、何故、そこまで俺に執着する?」
「それは…貴方の望みを…聞きたかったから。他の時空で、貴方に
 戦い以外に望みは無いのかって聞いたら、貴方は『太刀を抱かぬ俺に
 聞いてみればいい』って言ったから…だから…」
「…そうではない。」
「え?」


知盛はゆっくりとした口調ながらも、力強い言葉で望美の言葉を切った。
思わず、望美は知盛の瞳を真っ直ぐに見つめる。知盛の薄紫の双眸は
とても楽しそうに、望美を見つめていた。


「それは、お前がこの世界を築き上げた切欠に過ぎない。
 俺が知りたいのはそれではない。数多の俺を殺して…世界を変えて。
 そこまでして、お前が俺に執着した…俺に求めたものは何だ?」
「それは……。」


望美は改めて、知盛の瞳を見つめる。酷く楽しそうに…いつもと変らず、
望美を見つめる瞳を……ああ、そうだ。知盛の瞳はいつ見ても変らない。


「貴方の瞳が…貴方の私を見る目がいつも変らないから。」
「だから?」
「ええ、貴方の瞳が欲しかった。」


望美は剣を腰に収めると、空いた両の手を見つめる。剣を振ることで
強くなったその手は、かつての自分の手とは見目形が違った。
そして、それだけではない。多くの血を流し…人の命を奪った。
これは、上手な人殺しの手だ。


「かつて…初めてこの世界に流されてきた時。私は、本当にただの子供で
 …上手く剣を振ることさえ出来なかった。それが、多くの時を越え、
 数多の人を殺め…次第に強くなっていった。そして、最後には…
 誰からも恐れられるほどの技量を身に付けた。」
「…確かに、な。お前の技量は並々ならん。」
「だけど…。」
「だけど?」
「強くなればなるほど、みんなの見る目が変った。みんなの役に立ち
 たかったから、強くなっただけなのに。なのに…みんなは…私を…
 変ってしまった私を、みんな、恐れてた。…でも、貴方は違った。
 いつも、楽しそうに私を見つめていた。たとえ、私が人殺しだと
 告白しても。」
「初めて会ったときから?」
「ええ、初めて貴方に…生田の森で会ったときから、ずっと。
 だけど…結局私は、貴方の瞳を得ることは出来ないんだね。
 貴方の為に築き上げたこの世界では、貴方と一目も会う機会が
 なかった。そして、私のことを貴方を知ってもらう為には、剣を重ね合う
 しか、手段が無い。」


望美の言葉に、知盛は黙して返事を返さない。望美は小さく溜息を
付くと、頭を振った。


「私と貴方は、互いの肉体を斬り付け合うことでしか存在し得ない、
 逆しまの運命。だから…」
「御託はそれまでか、神子?」
「え?」


気が付くと、すっと知盛の手が望美の頤に伸びていた。束縛の術が解けた
のだろう。知盛の指はそのまま望美の頤に触れ、頬に伸びる。かつて
生田の森でそうしたように、知盛は目の前の望美に…まるで幼児が
興味があるものに触れて確かめるが如く、触れる。生田の森では白龍が
知盛の挙動を瞬時に止めたが、この森には二人しかおらず、知盛はゆっくりと
望美に触れる。太刀を打ち合っていたときには想像できないほど、望美の
頤は華奢で、その頬は柔らかい。知盛は、望美のその落差に小さく笑った。
そして、知盛の行動の意図が理解できない望美は、その場に立ち尽くす。


「初めて出会った時から…数多殺された俺は…同じようにお前を
 見ていたのだろう?」
「…ええ。」


知盛が、ゆっくりと望美の耳元に唇を寄せる。


「ならば…お前は、仲間の目を恐れることも…悲しむこともない。」
「…何故……?。」
「お前は、人殺しに変容したのではない。ただ……」
「ただ?」


知盛は、望美の耳元にそっと囁いた。


「それが、お前の本性なのだ。」
「え………。」


望美は改めて自分の手を見つめる。この人殺しの手が私の本性?
呆然とする望美を、知盛は咽喉の奥をククと鳴らしながら、楽しそうに
見つめる。


「…これが、私の本性?そんな…そんな訳…」
「ああ、お前の本性。どうやら…俺とお前は同類のようだな。
 俺のお前を見る目が変らないのではない。お前が、獣の様な瞳を
 しているから、その輝きを俺の瞳に映し出しているに過ぎない。
 故に、最初から…きっとお前が今時分ほど強くなかった頃から、
 俺のお前を見る目が変らないのだろうよ。」
「………確かに…最初から…貴方は……。」
「……来いよ。」

知盛が、望美の手を取って軽く抱き寄せる。望美は…知盛に知らされた
事実に呆然としたまま、知盛の腕の中に抱き寄せられる。


「瞳を、見せろ。」


無言で知盛を見つめる望美に瞳の中には…白い、狂気。知盛の瞳を欲して、
同時に数多の知盛を殺し、その欲望の為に一つの世界を築き上げた
と言い切る女の…狂気。そして、知盛の瞳の中に望美の光を映しこむの
同様に、望美の瞳の中に自分の瞳が放つ光が映りこむのが見えた。
知盛の望んで止まない眩い世界が…その瞳の中に見えた。


「いい瞳をしている。」

知盛は心の底からそう思った。そして、数多殺された自分も同じ様な
思いを感じたに違いないと気づき、胸の奥からちりちりと焼けるような
苦い思いが競り上がる。…妬ける。殺された数多の自分は、きっと眩い
世界に心を奪われ…因獄に繋がれた咎人の様に、その場から動けなくなった
ことだろう。


「一つ、問おう。」
「………何?」
「明日和議が成り、世に平和が訪れる。五行は満ち、龍神の神子の役目も
 終わろう。争いの無い世の中で、お前は…どうする?」
「私は…私の元居た場所にに帰るよ。元々争いの無い…極普通の平和な
 世界に。」
「そうか。ならば…それが、お前の問いに対する答えだ。」
「…え?」


呆然とする望美に、知盛は小さく首をかしげ、少々不満そうな顔する。


「……お前が答えを聞かせろと言うから、答えたのだが…」
「だって…私と…元居た世界に…?何故…」
「クク……お前は俺の瞳が欲しいのだろう?俺の瞳はお前の瞳の
 光を映し出す鏡。二つで一になる。ならば、共に行こう。
 お前の瞳が…その輝きを失わない限り。」
「知…盛…えっ!!」


望美の返事を待たずして、知盛が望美を押し倒す。望美は抵抗する間もなく
組み敷かれ、知盛の体の下から顔を見上げると、知盛と真っ直ぐに視線が
合った。知盛は酷く楽しそうに、望美を見つめている。そして、その瞳
の中には…望美の瞳が映りこむ。


「お前を…もっと教えろ。数多の俺はもっとお前のことを知っていた
 のだろう?」
「ええ…そうだね……でも先ずは。望美。」
「…ノゾミ?」
「うん、望美。それが…私の名前。」
「クク…望美、か。」
「…何がおかしいの?」
「俺の願いを…叶える新たな獄の名前がノゾミとは。なんと因果な。
 しかし、それもまた一興。」


知盛は口の端をすいと上げて笑うと、そのまま望美の言葉を封じ込める
ように、深い口付けを落とす。それはまるで、言葉ではなく体で望美の
事を教えろというかのようだった。望美も、知盛の背に腕を回し、その
問いに答える意志があること示す。波間に沈んだ男と違って、今望美の
腕の中にある男は激しい熱を帯びていた。


 知盛は、私の腕の中にいる。
 私は、知盛の腕の中にいる。
 確かに、今、二人。
 ここに、いる。

 互いに互いを閉じ込めあって。

 
 なるほど、生死の境にしか存在意義を認められないアナタと、
 人殺しが本性である私には相応しい世界。


 咎人を捕えて閉じ込める世界。


 因獄。


 それは、まさしく、私とアナタだけの世界。





back