ねぇ、九郎さん。
あの時本当は…



笑顔の向こう側



洞窟の奥に設えた牢は、暗く、湿度が高い所為か不快なことこの上なかった。
望美は滑りやすい足元に気をつけながら、一歩一歩、最奥を目指す。
源氏の為に大功を立て、なみなみならぬ努力をしてきた九郎がこの洞窟の
一番奥の牢に捕らえられている。無断で官位を賜ったという事実がそこまで
の咎に当たるのか、望美には理解できない。この暗く重苦しく不快な洞窟は、
頼朝の心中と同じなのではないか…そんな思いに沈みながら、望美はさらに
歩み続ける。

やがてぼんやりとした明かりの中に、獄中でも姿勢を崩さず凛と座っている
九郎の姿が浮かび上がってきた。本当は駆け寄りたい気持ちを、ぐっと抑えて
望美やはり先程と変らぬゆっくりとした足取りで牢に近づいた。ここで騒いで
面会自体を取り消しにされては元も子もない。やがて人が近づく気配に気が
付いた九郎がすっと顔を上げ…笑った。


「なんだ、望美。こんなところによく来られたな。」
「うん…神泉苑で九郎さんの許婚って嘘をついたお陰で。」
「そうか、瓢箪から駒といか…どう転ぶか分からぬものだな。」


少し苦笑いをしながら、九郎は望美を真っ直ぐ見つめる。望美も九郎を
見つめるが、檻越しの九郎は余りにも遠かった。物理的には1メートルも離れて
いないのだが、手を伸ばしても九郎に触れる事すら出来ない。格子に嵌った
檻が望美と九郎の世界を断絶する。望美は何か声をかけようと唇を開くが
ただ苦しく息がもれるだけで、何一つ言葉が出なかった。

「…大丈夫だ、望美。兄上は誤解をしていらっしゃるだけなんだから。
 誤解が解ければ…すぐに釈放される。安心しろ。」
「九郎さん…」
「だから、ひとつ頼まれてくれないか。この手紙を兄上に渡して
 もらいたいんだ。」
「はい。」


獄中の九郎から、一通の手紙を渡される。受け取るために手を伸ばした
瞬間、九郎の指が、望美の指に触れた。ほんの僅かの時であったが、
確かに、触れた。無骨な冷たい指に、望美の肌を通して微かに熱が伝わる。

望美は、九郎を見つめる。
九郎が、望美を見つめる。
指が触れ合う刹那。
その一瞬だけ、見つめあう。

しかし、その時は直ぐに費え、手紙だけが望美の手に残った。
指に確かに感じたはずの九郎の感覚は、もはやその手には残っていない。
思わず、望美の唇から嘆息が漏れる。


「あ………。」
「あ、え、あっ……すまん。その、他意はないんだ!」


自分の行いに気が付いた九郎は、少し顔を赤らめそっぽを向く。
しかし、直ぐに望美の方に向きなおし、柔らかく…笑った。


「お前の太刀筋は、風の様に軽く、舞の様に艶やかだった。」
「…前に吉野で、一緒に練習して…九郎さん、ほめてくれましたよね。」
「ああ、本当にあんなに美しい太刀筋は見たことが無かった。
 それに…武芸をたしなむ割にはその…美しい手をしているなと…」
「あ………。」


望美は思わず自分の手を見つめる。いくらこちらへ着てからから欠かさず
鍛錬に励んでいるとはいえ、幼少の頃より鍛錬をしてきた九郎の手に
比べれば相当白く柔らかい手に違いない。


「…お前の太刀と、その美しい手…俺は一生忘れないと思う。」
「九郎さん…私……」
「オイっ!!!時間だぞ!!」


見張りに引き立てられて、望美は無理矢理九郎から引き離された。
最後になんとか振り返り、九郎の姿を見つめる。九郎は牢のなかで
着た時と同じように、姿勢を崩さず凛と座って…笑っていた。そして
その唇からは、「大丈夫だ」と呟く形が見えて取れた。


「九郎さん…九郎さん!!!!!」


望美の絶叫が洞窟の中で反響する。しかし、もはや乏しい明かりの中では
遠く離れた九郎の様子を見ることが出来なかった。望美に出来ることは
ただひとつ、自分に託された手紙を頼朝に届けることだけだった。

しかし。

頼朝は手紙を見ることは無く、九郎は処刑された。斬首される時も
凛として…その瞬間までも唇には微かに笑みを湛えていたのだという。




ねぇ、九郎さん。


あの時本当は…もう…分かっていたんでしょう?
自分が信じて来た道が、兄上が…自分を必要としていないと言うことに。
それなのに、貴方は。それでも、貴方は。私の為に、大丈夫って言って
くれたんですね。


「九郎さん…」


望美は白龍の逆鱗を取り出すと、両手で優しく包み込み、願いを掛ける。
そして、愛しい名前を一言呟き、時空の流れに身を任せた。




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