手渡された文はまるで紙屑の様に丸められていて。
書かれていた字は難しくって全く読めなかった。
でも、私には分かる。
彼の目線、
彼の表情。
彼のおぼつかない振る舞いで。
彼が私に何を求めているのかを。
逢引
「辛うじて読めるのは、刀……うーん、手合わせ…稽古?かな。」
望美は余りにも小さく折られていて、まるで紙屑の様にしか見えない
くちゃくちゃな文を何度も読み直していた。まあ、くちゃくちゃだから
読めないのではなく、根本的な問題として、文字自体が望美にはほとんど
読めないのだったが。
こちらの世界にやって来て、既に一年過ぎた。暇を見ては朔に文字を習ったり
するのだが、未だに簡単な平仮名ぐらいしか読めない。元来た世界では
一音一文字だが、こちらの世界では同じ読み方をする仮名文字がたくさん
あったりするのだ。水が高きから低きに流れるよう、必然的に望美は頑張って
勉強して読めるようになるよりも、人に読んでもらう方を選んでしまっていた。
「こんなことならもう少し頑張って勉強すればよかったかな。」
小さく溜息を付きながら、望美は文の前半三分の一の辺りを器用に切り裂いた。
その辺りで「刻」という文字が読めたのだ。多分場所と時間を表している
のだろう。本編が読めないのは仕方がないが、待ち合わせ場所と時間を指定
されているのであれば、そこを理解できないのは拙い。それゆえ、その部分
だけ切り取って朔に読んでもらうことにする。本編は…まぁ、読まれたほうが
拙いことでも書いてあったら困るので、望美は懐の奥にしまった。
「えーっと、今日の羊の刻、神泉苑…で。みたいね。この後切れちゃってる
から良く分からないけど。」
「あ、そう…有難う。」
朔は望美に手渡された紙屑…もとい、文の切れっぱしを丁寧にたたんで望美
へ返すとにっこりと笑った。望美は急いでその文を懐にしまうと、礼もそこ
そこに朔の部屋から立ち去った。望美が近くにいなくなったことを確認して、
朔はおもいっきりふきだした。
「望美に文を送るなんて…本当、あの人らしい。きっと望美が文字を読めない
ことなんて、すっかり忘れてしまっているのね。」
朔は先程読んだ文面を思い出し、もう一度笑った。仰々しい時候の挨拶
から始まり、集合場所と時間の指定はまるで果し合いでもするが如し。
朔も僧形をとる前は、いろいろ殿方から文をもらったこともあったものだけれ
ども、あんな文は一度たりとて読んだことはなかった。厳つい漢字ばかりの
文は到底恋文には見えない。一頻り笑った後、朔はふうと息をつく。
そして、望美が出かけていた方向の空を見つめ、優しい笑みを漏らした。
「うふふふ…頑張ってね、望美…。いえ、頑張るのは寧ろ九郎殿の
方かしら。まあ、どちらにしろあの子が帰ってきたら、残りの文も
読ませてもらわなくっちゃね。」
神泉苑の池の辺に九郎が佇んでいた。花の盛りはとうに過ぎ、辺りには
人影もない。時折吹く風が、九郎の長い髪を悪戯にかき乱すだけだった。
静寂の中一人悠然と佇む九郎は、とても威厳があった。彼が多くの武士を
率いる将であることなど、つい普段は忘れてしまうこともある望美だったが、
遠目で客観的にみると、九郎は武士である以外、何者にも見えなかった。
望美は急いで九郎の元に駆け寄った。九郎も望美に気が付いた。その瞬間。
彼の気配が変る。
辺りを威圧する気配が崩れる。
彼の視線が…すこし伏目がちになる。
「ごめんなさい、九郎さん。待ちました?」
「…いや。」
それっきり、口ごもった九郎は望美とは視線を合わせず、池の端を見つめて
いた。そして、何か決心でもしたかのように、一つ大きく咳払いをする。
「あ、じゃぁ、稽古をつけてやる。」
「はい!!!」
どうやら望美の予想は当たったようで、九郎は手合わせを始めた。
カキン、カキンと打ち合う中で、互いの息が上がってくる。でも、望美は
あることに気が付いた。
「で、何で神泉苑くんだりまで来て剣の稽古なんですか?」
かいた汗を手ぬぐいで拭い、休憩の為に近くにあった石に座り込んだ望美
は躊躇うことなく、水筒の水を一気飲みする九郎に質問した。思わず、口に
含んでいた水を噴出す九郎。
「ば…ばか、お前…一応、文に書いておいただろうが!!」
「あ、その辺読めませんでした。というよりも、全体的に読めませんでした。」
「…では、何故約束の刻限と場所にこれた?」
「朔に読んでもらったので。」
「!!!!!!!」
九郎の顔が一瞬にして紅に染まる。そして、その場に屈み込み、顔を上げない。
どうやら朔に読まれたら相当拙い文章だったようだ。望美は笑いながら九郎の
肩を叩き、言葉を付け加えた。
「あ、でも最初の三分の一程度しか読んでもらってませんよ?
だから私も朔も後半の方は読んでませんから。大丈夫です!!」
「何が大丈夫なんだよ…」
相変わらず屈み込んだまま、少しだけ顔を上げた九郎は相変わらず顔が
赤い。そんな九郎の様子が余りにも可笑しかったので、望美は九郎に
意地の悪い質問をした。
「で、なんて書いてあったんですか?」
「今更聞くな!!!」
「でも読めませんでしたし。」
「それならば、読めないままでいい!!」
「じゃ、邸に帰ったら朔に読んでもらおっかなぁ〜。」
「それだけはやめろ!!!!」
最早悲鳴といっても過言ではないぐらいの悲壮さがこもった声で、九郎が
叫ぶ。しかし、望美はやっぱり意地悪げに最後の質問をしたのだった。
「じゃあ、なんて書いてあったか教えてください。」
「…たかった。」
かすれる声。
触れたらやけどをしてしまいそうな熱い肌。
「良く聞こえません。」
「お前と……っきりで。逢いたかった。」
遠くを見る視線は熱を孕み。
「全然聞えません。」
「く…お前と、二人っきりで、逢いたかったんだ!!!!!!」
「あ、やっぱり?」
「……。な、なんなんだ、その切り返しは!!!!!!」
屈み込んでいた九郎は絶叫と共に勢い良く立ち上がった。しかし、
恥しさの絶頂を迎えていた九郎だったが、望美の思いがけない切り返しの
所為で頭が混乱する。しかし、望美は座っていた石から立ち上がると、
にこにこと微笑みを漏らすだけだった。…そう、望美はわざわざ九郎に文の
内容を教えてもらわなくっても、本当は中身が分かっていたのだ。望美に文を
手渡した時の、九郎の目線、九郎の表情。九郎のおぼつかない振る舞いで。
九郎は武士だった。何時いかなる時も武士だった。そして、武士の中でも多く
を率いる将だった。彼の前には幼い時から、その道しかなかったのだ。
だから。
ろくな文さえ送れない。
剰え、呼び出したところで剣の稽古だ。
花を贈る、舞を見る。
そんな女が喜びそうなこと一つさえ、思いつくことも出来ない。
そんな彼を無粋だと笑うことは簡単だ。
しかし、望美は想うのだ。
九郎が…
夜半、人目を忍んで文を書き、小さく、小さく文を折りたたんであろう姿を。
望美が喜びそうなことを、考えて、考えて…結局剣の稽古にしたであろう姿を。
ただ、只管に、望美のことだけ考えていてくれたことを。
望美はすっと手を伸ばして九郎の髪に触れる。普段、九郎は自分の髪を
他人に触れられることを酷く嫌がるのだが、望美だけは別だった。
望美はそのまま、さわさわと髪を撫で、背中でその手を止めた。
そして、ぱたりと九郎の胸元に倒れこんだ。
「ど、どうした望美!急に立ち上がったから眩暈でもしたか?」
「ううん…違います。あのね、私、嬉しかったです。」
「な、何がだ?」
「九郎さんが、色々考えてくれて…デートに誘ってくれたこと。」
「でーと…?それは一体…。」
「…逢引です。」
「あ!あい…」
九郎はまた絶叫しそうになったが、その瞬間、九郎の背中に回されていた
望美の手が強く九郎を抱きしめたので思わず言葉を飲み込んだ。
九郎もゆっくりと望美の背に手を回し、望美を抱きしめる。自分の腕の中
に抱きしめた望美は思っていた以上に小さく、華奢で…暖かく、甘い匂い
がした。
「だから、また誘ってください。でも、今度は文じゃなくって…
直接、口頭で。私、文、読めませんから。」
「ああ…機会があれば、な。」
「もう、機会ないんですか?」
望美が拗ねた甘い声を漏らす。自分の胸元で漏れる甘い声に、九郎の
鼓動は弥が上にも高鳴り始める。堪えきれないほどの熱が彼の体に
込上げる。もう一度、望美が同じ言葉を漏らす。零れ落ちた言葉は、
先程よりも更に甘く、九郎の五感を刺激する。
望美に、三度目の言葉を漏らす機会は与えられなかった。
望美が言葉を漏らすよりも早く、九郎の熱が九郎の理性を溶かしてしまったから。
そして、九郎の熱は指先を伝い、唇を伝い、望美の熱となる。
お互いの熱を伝えきって、やっと九郎に理性が戻った後、望美は小さく
笑いながら、九郎に言ったのだった。
「口頭が難しいなら、ハグでもいいですよ。」
「な、なんだ…はぐって。」
「えーっと抱擁、かな。でも毎回さっきみたいなハグだと、流石に
ちょっと恥しいです。」
「な…あんなこと人前でできるか!!」
「じゃあ、口頭で。」
「………分かった。」
結局、望美の言うがままになった自分に溜息をつく九郎だったが、
望美の愛らしさに免じて望美の願いを聞き入れることに決めた。
…しかし、その決断が後々「結局恋文の後半を朔に読まれた」事件やら
「九郎は望美さんの尻に敷かれすぎですよ」事件に発展していったり
するのだが、まだ、今の九郎は知らない。
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