いまはむかし


寒風が吹き荒び、家中の戸をガタガタと打ち鳴らすとある日の夜半。
淡い眠りについていた百地の耳が、風が立てるそれとは異なった小さな音を
捕らえた。しかし、音の原因に察しがついた百地は温い布団を頭まで被り、
一旦はその音を無視しようと心に決めた。

が、しかし。無視しようにも一度捉えた音を、百地の耳は逃しはしない。
断続的に続くその音に痺れを切らした百地は、床から出ると音の出何所へと
真っ直ぐに向う。

ただし、真っ直ぐに向かったと言えど、自分と小さな子供が二人きりで住む
程度のこじんまりとした質素な家だ。あっさりと音の出何所……火の気が
とおに消えた台所につく。するとそこには百地の予想通りに、台所の片隅でもう
一人の住人……ほたるが一人膝を抱えて蹲り、小さく震えていたのだった。

百地は気配を殺したまま、ほたるの様子をしばし伺った。暗がりの中、
ほたるは泣き声を上げぬよう食いしばり、身を堅くして膝を抱かかえていた。
しかし、涙を堪えれきれないのか、時折ほたるの唇から嗚咽が漏れる。
その時折漏れる僅かな嗚咽が、風の立てる音に混じって百地の耳まで届いたのだ。

「そんなに泣きたいのならば、自分の部屋で泣けばいいものを……」

寒さに震え、身を竦ませながら涙を堪えるほたるを見た百地は思う。そして、
同時にこのような場所で隠れるように泣く理由も察しがついた。
今日の昼間の修行で、ほたるは自分に散々叱られたのだ。叱られてもしかた
ないような凡庸な失敗ではあったのだが、それ故、本人もそのことをちゃんと
理解していた。叱られた上、泣いているところなんて見られたくない……
百地の小さな甘ったれにも、そんな矜持が涌いてきたらしい。思わず
弟子の成長に頬を緩めた百地だったが、何時までもこんなところで一人
泣かせていては、ほたるが風邪を引いてしまう。既に百地が嗚咽に気がついて
から、随分と時が経っていた。きっとほたるの小さな身体はすっかり冷えて
しまっていることだろう。そろそろ頃合だと判断した百地は、ひょいと台所に入り
ほたるの傍に立った。

「おい、甘ったれ。こんなところで何をしている」
「え、あ!師匠……」
「何をしていると聞いている」
「な…何もしてません」

そう答えたほたるは、急いで袖で目元を擦っている。今更拭っても遅かろう
にと思った百地であったが、そこは弟子の矜持を組んでやった。込み上げる
微笑ましさを胸の中に押さえ、真面目な顔つきのまま、ほたるに問う。

「では、何故こんなところにいる?」
「えっと……。……」
「全く。こんな所で泣くのなら、言い訳の一つでも考えておけば良いものを……」
「な、泣いてなんてないです!」
「そうか……俺の耳には猪の鳴き声のような呻き声が聞こえたのだがな。
 気になってこちらに来て見れば、お前が蹲っていたというわけだ。猪の鳴きまね
 ならば昼にやれ。お前の所為ですっかり目は覚めるわ、身体も冷えるわ、散々だ」
「いの…しし……」
「……聞いているのか、ほたる!」
「は、はい!!」
「師匠の安眠を妨げるとは、弟子の風上にもおけんな。故に……今夜は
 一晩かけての任を与える。ほたる、これから俺の床を暖めろ」
「へ?」

蹲っていたほたるが目を丸くして百地を見つめた次の瞬間。百地はほたるの
襟元を掴むと、そのままぐいと抱き上げた。突然の出来事に、ほたるは
身動きできず、ただ百地にされるがままとなる。ほたるを抱き上げた百地は
そのまま自分の部屋に戻り、自分の床の中へとほたるを放り込んだ。
そして自分も共に床に入り、冷えたほたるの身体を暖めるよう、そっと
身を寄せた。

「師匠……一緒に寝てくださるんですか?何時もは怖い夢を見ても、絶対
 添い寝もしてくださらないのに……」
「当たり前だろ。……今日は、特別だ。寝てる餓鬼は温かいというからな。
 兎に角、さっさと寝ろ!」
「はい!お休みなさい、師匠」

ほたるは小さく挨拶の言葉を口にすると、百地に命ぜられたとおり直ぐに
眠りについた。抱かかえたときにはかなり冷えていた手足も、直ぐに熱をとり
戻す。百地はそっと、眠るほたるの頭を撫でた。僅かに冷気を孕む髪も、
直に温もりを取り戻すだろう。

「これで風邪を引かれずに済みそうだな。……しかし、本当に餓鬼の身体は
 温かいな」

百地は安らかな寝息を立てて眠るほたるの頬に触れる。ほたるの放つ熱は、
床に女を引き込むのとは違った優しい温かさだった。だが、これ以上ほたるを
甘やかす訳にはいかない。『これが最初で最後だな』とまるで自分を戒めるかの
ようにわざわざ百地がそんな言葉を口にした瞬間。ほたるが百地に身を寄せた。
そして、まるで母の乳を探る子猫のように百地の胸元に擦り寄ると、僅かに
緩んだ着物の中に手を差し入れる。

「な…!おい!!……ったく。……」

ほたるにこれ以上はないというほど密着され、しがみ付かれたことに驚いた
百地だったが、折角寝付いたほたるを無碍に起こす気にはなれず。結局ほたるの
温みに身を任せながら、安らかな眠りについたのだった。


春の柔らかな日差しが庵の縁側を暖める日の午後。百地は、一人、縁側で午睡を
楽しんでいた。しかし、春眠暁を覚えずという先人の言葉は百地には当て嵌まらず。
百地の愉悦を邪魔する闖入者が一人。気配を殺して近づいてきてはいたが、
庵に仕込まれたひずみが立てる音を、百地の耳が聞き逃す訳もなく。百地は只管、
闖入者が近づくのを待った。

そして、百地の首に闖入者の手が掛かろうとした瞬間、百地はため息混じりに
緩く息を吐くと、ゆっくりと目を見開いた。

「もう少し、小さな建物に入るときには気を払え、ほたる」
「師匠……もしかして、随分前から気がついてました?」

百地が目を見開くと、目と鼻の先にほたるの顔があった。悪戯がばれた子供のような
笑みを浮かべていたほたるだったが、それは真に子供ではあらず。本人は全く自覚して
いないようであったが、愛らしさに含まれる仄かな色気に百地の身体が熱くなる。
しかし、そんな百地の気など知る由もないほたるは、縁側に横たわる百地に合わせて、
まるで子供のように無邪気に縁側に横たわった。そんなほたるの様子を見た百地は、
呆れ半分な表情を浮かべると片手枕に軽く身を起こして、ほたるの問いに答える。

「随分前、というより最初からだな」
「えー酷い!もっと早く教えてくださればいいのに。今日は上手くいったかと
 ぬか喜びしてしまいました」
「甘い、な」
「……でもいいんです。もとより、そういう隙を狙いに来た訳ではありませんから」
「何?……おい!」

何を言い出すんだと百地が問うよりも早く。ほたるはぴっちりと百地に身を寄せた。
かつて、底冷えする台所で身を冷やしてしまった小さな子供のそれとは違う
大人の女の熱に百地は思わず身を震わせる。上手く百地の隙をついたほたるは、これ
幸いと百地の胸に頬を埋め、僅かに袷が緩んだ百地の胸元に手を差し入れた。
ほたるの細い指先は百地の腹を撫で、腰をしっかりと抱きしめる。どこでこんな
手技を覚えてきたんだと一瞬叱りそうになった百地だったが、なんとか心を落ち
着かせて、こほんと小さく咳払いを一つもらすと極めて落ち着いた声でほたるを諭した。

「ほたる。まだ日が高いぞ。しかも、ここは縁側だ。場所をわきまえろ。場所を」
「でも、どうせ誰もいませんよ?それに……」
「それに、なんだ?」
「師匠は口にするほど、私にこうされるのお嫌いではないでしょう?
 今も、昔も、変らずに」
「なっ!!!」

にっこりと笑ってそう囁くほたるに、百地は二の句を継げなくなるのだった。