藪蛇
二の丸のとある部屋にて、渋面の娘が一人。相対するは、彼女の主。
明智光秀その人である。
光秀は、物憂げな表情を浮かべながら、再度視線を目の前の娘……
ほたるに送った。折り入って話がしたいという、配下の忍びの懇願を受け、
部屋へ招き入れたのはのつい先ほどのこと。
「悲壮な顔つきを案じて理由を問うてみれば……全く、くだらない事で
悩むよねえ、君も。というより、前にも似たようなことを聞かれたような気も
するんだけれど」
「申し訳ありません、光秀殿。しかし、以前に乞うた時のお答えが、
とても役に立ちましたので」
「ああ、そう。それはよかったねえ。なら、その経験を糧に、一人で頑張ろう
とは思わないのかい?」
「もとより、一人でどうにかなっていれば、光秀殿にお伺いすることはありません」
「……腹立たしいほど正論だね。
ならばうちの女房たちに聞くという手段はなかったのかな?」
「ここは、殿方のご意見をお聞きしたく……それに、明智の姫君がそのような事を
女房に問うてよいものやら判断がつきかねましたので」
「そうだねえ。本当にねえ。……私の小鳥はどうして、こうもこの手の事に疎いのか」
最後は深いため息にかき消されるように呟くと、光秀は諦観の表情を
浮かべながら再度ほたるに眼差しを送った。
数日後。
任務の合間をぬい、ほたるは安土城下の市へ足を運んだ。春めいた日差しが、
活気のある市をより一層華やいだ雰囲気を醸し出す。
その陽気に当てられたように、ほたるの頬も淡い桜色に染まった。これから過ごす
時間を考えると、自然と頬はゆるみ、桜色が濃くなってくる。そう、今日は師匠の
百地も任務の合間をぬってこの市を訪ねる予定なのだった。
馴染みの茶屋に入ると、ほたるは団子を頼み、店先に出された椅子に腰掛けて
百地の到着を待つ。往来を行き来する人を眺めながら、ほたるは先日、
光秀に教えられたことを反復していた。
すると、さほど間を置かず、百地が人混みの中からひょいと現れた。
その姿にすぐに気が付いたほたるは、椅子から勢いよく立ち上がると、
満面の笑みで百地を出迎えた。
「待たせたか、ほたる?」
「いいえ、私も先ほどついたばかりです。師匠もお団子、食べますか?」
「いや、俺はいい。ほたる、お前が食べ終わったら店を出よう」
「……今日も、あまり時間がないのですか?」
「まあ、な」
言葉少なげに肯定の意を示した百地の様子に、ほたるの面差しは明らかに曇った。
互いに忍び働きをしているから仕方ないとは言え、このところ短い逢瀬が続いていたのだ。
ゆったりと触れ合える時間など無きに等しい。しかし、その不満を百地に伝えても詮無きこと。
ほたるは不満の色を隠して、淡い笑みを浮かべた。
「それでは、急いでお団子を食べてしまいますね。その後、少し市で見物でもしましょう」
「ああ、分かった」
そう言った途端、頬袋を膨らませた栗鼠のような顔つきで団子を頬張ったほたるの様子に、
百地は思わず笑みを漏らす。しかし、それと同時に時間を作れぬ申し訳ない気持ちが沸くことも
事実だった。会いたければ、会いに来てやると口にはしたものの、任務の狭間をぬって取れる
時間はあまり長くはない。信長の天下が近づいてきているとは言え、忍び働きを求められる状況は
まだまだ数多くあったのだ。
昔であれば、駄々の一つもこねられたのだろうか。そんな考えが脳裏に過ぎり、
百地は今度は苦笑を漏らす。見てくれだけではなく、中身もやはり大人になったのだなあと
年寄りくさい感慨が浮かんだことに、そしてそんな娘とこれから市をそぞろ歩きをする自分自身に
ふつふつと可笑しみが沸いてきたのだ。
「師匠、食べ終わりました!それでは、見物に行きましょう!!」
「ああ。そうだな」
いつも以上に気合いが入っているように見えるほたるは、まるで体当たりでもするかの勢いで
百地の腕をとった。結局は子供っぽいのかと口の端を緩めた百地だったが、その表情が
悩ましいものに変わるまで幾許も時間はかからなかった。
しばらく市をそぞろ歩いてからほたるが好みそうな品ぞろえの小間物の店に寄ったのだが、
ほたるは百地の傍から身を離さず遠目に小間物を見ていた。
そんなほたるの態度を不思議に思った百地だったが、ほたるの為に色味が合いそうな簪を
一つ手に取った。
そして、その瞬間。
僅かに百地の身が跳ねた。不意に尻のあたりに甘美な痺れが走ったのだ。思わず百地の
となりで寄り添うように立つほたるに眼差しをやったものの、ほたるは何事なかったように
並べられていた簪を眺めていた。
「……何か、当たったのか?」
百地は首をひねって背後を確認したものの、それらしき人も物もない。訝しみながら小間物の店を
離れた百地だったが、その後寄った店や、見せ物を見ていた時にも同様なことが起こった。
「……流石に、そろそろ……な」
百地はため息をぐっと堪えながら、人気のない市の外れに向かって足を進めた。ほたるは
何も言わずに百地の後に続く。そして、市の外れで人気が完全に途絶えた場所に付いた途端。
百地は人目につかない袋小路にほたるを引き込んだ。
「し、師匠!?」
不意に腕を取られ、強引に引き寄せられたと思った途端。ほたるは板塀に押し付けられて
身動き一つままならない状態となった。ほたるの身体を押さえつける、百地の身体が熱い。
何事かとほたるが問うよりも早く、百地の唇がほたるの唇を封じ込めた。
「ん、ん……!」
蹂躙するように、深く深く。百地の舌がほたるの舌を絡め取る。息を吸うことさえ許さぬほどの
口づけに、ほたるの呼吸が浅くなった。そのことを察したのか、百地が唇の拘束を解いた。
が、しかし。ほたるが安寧の息を吐く暇もなく、百地の舌はほたるの首筋を舐めあげた。
「ひゃっ!」
ほたるの全身に、甘美な痺れが突き抜けた。背筋に残る愉悦の余韻に震えるほたるを
罰するように、百地はほたるの衣の袷に手を差し入れて、その柔肉を揉みしだく。
気が付けばほたるの衣は乱れに乱れ、いつ何時絶頂を迎えてもおかしくない状態となっていた。
「師匠……こんな……ところで?」
「……嫌か?」
「はずかしい……です」
完全に熱に浮かされたほたるだったが、その頬に羞恥の色を浮かべて百地の問いに
答えを返す。そして、百地がその答えを聞いた途端。
「ならば、くだらんちょっかいは出さぬことだな」
「へ?」
ぱっとほたるの拘束を解いた百地は、目にも留まらぬ速さでほたるの衣を整えると、
自身の衣の乱れも整えた。そして、僅かに眉を吊り上げてほたるを睨み付ける。
「お前は軽い遊びのつもりだったのだろうが、あんな風に男を誘うとこういう目に合うことも
十分にありえるぞ。まったく、藪をつついて蛇を出しても仕方あるまい。いくらお前が変化に
長けたくのいちとはいえ、単純な腕力という話なら、男に勝ることは難しいからな。両手を
塞がれれば忍法帳も使えまい。誘惑するなら、もっと頭を使え。いや、根本的な話として
色を使う状態になるのがどうかと思うが……って、おい、ほたる。聞いているか?」
一気に説教に入った百地だったが、目の前にいるほたるから反省の色がまるで見えない。
否、どちらかというと、瞳が何時にも増してきらきらと輝き……淡く浮かべる微笑は今まで
見たことがないほど愛らしいものになっていた。
「……いや、待てよ。どこかで見たことがある笑みだな」
百地は、思わず過去の記憶からその笑みの正体を探った。嫌な予感が百地の脳裏に
駆け抜けたのだ。しかし、そんな事を知る由も無いほたるは、淡く笑って百地に言葉を返す。
「師匠、ご心配には及びません。師匠が「その気」なってくださったということであれば、
此度の誘惑は大成功だったのですから。実は、このところお会いできる時間が少なく、
師匠とは団子を食べたり饅頭を食べたり、たまに小間物を買って頂くだけで逢瀬が
終わってしまって、残念に思っていたのです。勿論、それらの時はとても楽しい時なのですが……
その、私と師匠は……恋しあう者、同士ですから……もう少し直接的にそのような時間が
合っても良いかと。それで、我が主光秀殿に、短時間で上手い手段は無いか相談したのです」
「……(光秀に聞いたのか、こいつは)」
ほたるからの、予想の斜め上を行く言葉に思わず百地は黙り込んだ。
そして、次の瞬間。百地の脳裏に、「笑み」の記憶が蘇ったのだった。
「……!アレか!!」
そう。遥か、遥か昔。まだほたるがくない投げすら覚束ぬころ。毎日必死にほたるは
くない投げの練習をしていた。しかしコツがつかめぬほたるは、毎日泣きながらくないを
投げる練習をしていた。そして、ことあるごとに「もう、いやだ」と泣き言も漏らしながら。
そんなある日。とうとう百地は、ほたるの泣き言に負けてくない投げのコツを教えた。
本来ならば、師匠の姿からコツを盗み、自身の力で覚えるべきところだったのだが。
だが、上忍の血筋は伊達ではない。コツを掴めば、ほたるは驚くべき速さでくない投げの
技量が上がった。そして、そのことがよほど嬉しかったのだろう。ほたるは、相当暫くの間、
ひたすらくない投げを百地に見せ続けた。あまりに四六時中くないを投げるので、
小さな家の柱と言う柱に穴が開いたほど……。そう。ほたるの笑みは、その時……
嬉しそうに、くない投げを見せていたほたるの笑み、そのものだった。
「……(もしや、藪をつついたのは俺の方か?説教の一つでもと思って誘惑に乗ったが、これは)」
「師匠、その気になってくださったんですよね?」
「……!いや、そんなことはない。あれはお前に説教の一つでもと思ってだな!」
「ふふ、嘘などつかなくてよいのです。だって、ほら」
そう言ったほたるの手が、百地の身体に伸びる。整えられた百地の袷を満面の笑みで
乱れさせるほたるに、百地は成す術を見つけることは出来なかったのであった。
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