1.舞



「ああ、本当に。艶やかな花を見るのは心の幸いだね。」
「んもー、ヒノエ君!!今は練習中なんだから邪魔しないで!!」


桜の花びらが舞う下賀茂神社に、望美とヒノエの声が響く。望美が朔に
舞の稽古をつけてもらっていたのだが、一指し舞うごとにヒノエから賛辞の
言葉が雨霰のように降り注がれるのだ。最初は気を良くしていた望美だったが、
余りにも褒めちぎられるとかえって気が散って仕方がない。


「ヒノエ殿、過ぎると望美に嫌われますよ?」
「美しい花を讃えるのが、そんなにも罪深きことかい?
 心の底から湧き出す本音を、無理に堰き止めろと言われても難しいね。」


朔の柳眉がついと上がるのを目の端に留めながらも、ヒノエの唇は休まる
事を知らない。言葉で言い負かすのは到底無理と悟った朔が、大仰に溜息を
ついて、望美に告げる。


「今日の練習はここまでね。」
「えーーでも、まだそんなに…」
「ヒノエ殿が居る限り、はかどりません。」


朔はそう断言すると、自身の練習用の舞扇をぱちりと音を鳴らして閉じた。
もうこうなっては、てこでも朔は動かないだろう。望美は恨めしげにヒノエを
見つめながら、舞扇を懐にしまった。

少し用があるので寄り道をするという朔と別れて、望美はヒノエと共に
京邸への帰途に着く。無論、舞の練習を邪魔されてご機嫌は斜めのままだ。
一生懸命望美の機嫌を回復させようと試みるヒノエだったが、望美の
ふくれっつらはそうそうには直りそうにもない。


「そんなにふくれていては、可愛らしい花がしおれてみえるぜ?」
「もう、しおれさせたのは何処の何方でしたっけ?…本当に今日はね、
 ちゃんと練習したかったんだよ…。」
「ああ、ごめんごめん。」


ヒノエは望美の瞳の中の怒気が色あせてないことを悟ると、口が過ぎたこと
に溜息を付いた。しかし次の瞬間、望美の瞳の中に違う色合いの光がきらり
と瞬いた。


「じゃあ、代わりにヒノエ君、舞のお稽古つけてくれる?」
「…舞か。舞って舞えないことはないが、人に見せるものじゃぁなぁ…」
「あ、ヒノエ君、舞えるんだね!!じゃあ、教えてくれなくてもいいから
 一指し舞って私に見せて。ヒノエ君がどんな風に舞うか、気になるよ。」
「…だから、人には見せられないって。」
「なんで?」


またもやふくれ具合が増してきた望美の顔を見つめならが、ヒノエは一段と
大きな溜息を付いた。そして、観念したように言葉を続ける。


「神楽なんだ。神様に奉納する舞。しかも、俺が神子の頃にやったきりだ。」
「ヒノエ君が、神子!?」
「ああ、子供七つは神の内って言ってね。七歳までの子供は男女の区別も無く
 神様のモノってことになっているんだ。だから、緋袴身につけて、化粧して。」
「ヒノエ君が、お化粧!!?」


あまりに意外な話の流れに、望美の瞳は先程までの怒気はどこへやら、
好奇心の光に満ち溢れている。ヒノエは、上手く機嫌を直せてほっとした
のは心の内に隠したまま、にっこりを望美に笑いかける。


「見たいのかい?」
「うん…でも、神様の為の舞なら、だめだよね?」
「まぁ…お前は清浄なる白龍の神子だからなぁ…楽が無くてもいいのなら、
 舞ってやらないこともない。だけど、見料高いぜ?」
「見料?私、お金とかもってないよ?」


望美はすっかりヒノエの口車に乗せられて、舞の練習を邪魔されたことを
忘れきっていた。本来、その補填の為の話なのだから、見料も何もあったもの
ではない。しかし、ヒノエは言葉巧みに、望美を誘導する。


「金なんて要らないさ。」
「じゃぁ、何を払えばいいの?」


ヒノエは不意に言葉を止めて、望美の肩に垂れた髪を一筋、指で弄んだ。
そして、その一筋を耳に掛けてやり、耳元でそっと囁いた。


「…俺の願いを一つだけ叶えてくれればいいだけさ。その代わり、どんな
 願いかは聞かないでおくれよ。それでもお前が舞を見たいのであれば、
 今夜子の刻、邸の南にある小さな神社に一人でおいで。お前の為に…
 お前の為だけに、舞を舞うぜ。」


ヒノエはそう一気に囁くと、望美の返事を待つことなくにこりと笑う。
そして丁度京邸のついた望美を、邸の中に押し込むと、支度があるからと
言って出かけていったのだった。


その後、ヒノエは戻る事が無く。夜の闇は更ける。


約束の子の刻が近い。望美は他の八葉に気取られぬよう、細心の注意を
払いながら、こっそりと邸の裏口を抜けた。ヒノエの言う見料のことが気
にはなったが、やはりヒノエの舞が見たいという好奇心には勝てなかった。
あの後一度も邸に帰ってこなかったし、せっかく準備してもらったのに、
見ないのはヒノエ君に悪いもの…そんな言い訳を心の中で繰り返しながら、
望美は急ぎ足で神社に向かう。

ヒノエが指定してきた神社は、邸からはものの5分も離れていないような
近さにある神社だった。祭神のことは良く分からないが、小さいながらも
ちゃんと鳥居と社を構えており、社までの参道の両脇には古ぼけた石灯籠
が立っていた。そして、今はその石灯籠全てに明かりがともっている。
神社を覆うように林立する桜は、満開で、夜風を受けて散る花びらが石灯籠
の明かりを受けて、一段と美しく参道に舞い落ちていた。


「すごい…幻想的。」


ぼんやりとした明かりに導かれて、望美は参道を歩く。元々小さな神社で
それほどの距離はないのだが、丁度道程の真ん中あたりに一枚の莚が
敷いてあり、朱塗りの高坏に御酒の用意がしてあった。きっとここで座って
舞を鑑賞しろということなのだろう。望美はあたりを見回してヒノエを探し
たが、その姿は見えない。少しばかりの心細さを誤魔化す為に、望美は用意
された御酒に手をつけた。


「ふぁ…甘い。」


きつい日本酒を想像していた望美の期待を大きく裏切って、その杯に注いで
あった御酒は甘かった。何か果物を原料にでもしているのだろうか、
すこし、野の花の香りがした。その望美の杯に舞い散る桜の花びらが一枚
入る。高坏同様朱塗りの杯に、一枚落ちた桜の花びらは風情があって
美しかった。取り除くのは風流ではないな、と望美が思った瞬間。聞きなれ
ない音が望美の耳に聞えてきた。


カサリ、カサリ。


幣束を振る音だった。社の方から、緋袴に白い水干を身に纏ったヒノエが
ゆっくりとした足取りで出てきたのだ。楽がないので、幣束の音だけが、
はっきりと望美の耳に聞えてくる。やがて、望美の近くまでやってくると、
ヒノエは一礼をし、改めて舞を始める。


カサリ、カサリ。


舞う度に、音が響く。石灯籠の朧げな明かりの下、望美はヒノエを一心不乱に
見つめていた。ゆったりとした舞ながらも、ヒノエの動きは一切の無駄が
なく、体がぶれない。呼吸の乱れどころか、息をしているのかも怪しいほど…
ヒノエの顔には白粉が薄く塗られており、軽く閉じられた唇には紅が引かれて
いた。そして、結い上げるには少々短かった髪は、軽く一つに纏められていて
所々に指してある金色の簪が、石灯籠の明かりを受けて時折キラリと眩い光を放つ。

望美は、細部を見ることを止め、ヒノエの瞳を注視する。一つ動きが終わる
度に、ヒノエの中から、ヒノエだったものが抜け落ちて行くような気がした。
瞬きをしていては、その瞬間を見逃してしまう。それが惜しくて、望美は
ただ只管に、ヒノエを見つめ続ける。


「神子に奉じた舞…気に入ってもらえたようだね。」
「ヒノエ…君?」


気が付いたら、望美の目の前…それこそ肌が触れ合いそうなほど近くに
ヒノエの顔があった。ヒノエは真っ直ぐに望美の瞳を見つめている。
望美もヒノエの瞳から、目を離すことができない。


「さて、そろそろ見料を頂こうかな。」
「見料って……あ?」


不意に、望美の視界が半転する。先程まで真っ直ぐヒノエを見つめていた
と思ったのだが…望美の視界にはヒノエと…望美に舞い落ちてくる桜の
花びらと、真夜中に頂を巡る月が見えた。


「お前の、あれれもない姿が見たい。」
「えーーと………ん。」


望美は反論しようとしたが、体に力が入らない。先程口にした御酒に何か
入っていたのだろうか。それとも、神楽を舞うヒノエの瞳に…思考を
掠め取られてしまったのだろうか。ヒノエの顔が再び間近になり、ほんのりと
甘い白粉の匂いが望美の思考を停止させる。


「それは、肯定でいいんだろ?な…望美。」
「あ……ん…」


望美は肯定とも否定ともつかない、溜息交じりの声を漏らすとそのまま
ヒノエのなすがままにされる。ヒノエの瞳に見つめられて…ヒノエの
瞳に囚われたまま。只、春の夜に、望美の快楽の色に満ちた小さな悲鳴が
響いたのだった。




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