2.秘密



「神仏の慈悲に縋るのが、こんなに辛いとは…予想外でしたね。」


林の奥。人目に着かない場所についてから、懐から煙管を取り出すと、
黒い葉を詰めて火をつける。かたかたと震える手で、火をつける。
煙草を吸うという動作さえ、震える手では思いのほか難儀だった。

熊野の兄から、身代菩薩を得たのはつい先日のこと。
呪術が成り、いざという時に彼の身代になってくれるはずの
菩薩は、身代になるかわりに、彼の肉体に変化をもたらした。


人を切る度、手が震えて。
嘘を付く度、心が震えた。


だから、彼の手はいつも震えたまま。彼の心も震えたまま。
それが恐ろしいことかと問えば、彼は笑いながら否と答えるだろう。
彼が唯一恐れることは、震えの所為で彼の本願をしくじらないかという
ことのみだった。


「それじゃぁ、本末転倒ですからねぇ。」


ふぅっと煙草の煙を細く吐き出して、彼は瞼を閉じた。
深く煙草を吸うと、手の震えが収まった。心の震えも収まった。
手や、心が震えるのは…人を切るのも嘘を付くのも、それがとても
罪深いことだと彼の心が知っているから。彼が彼の意に反した悪行を
行っていることを、菩薩はご丁寧にも彼に忠告してくれているのだ。

だから、彼は煙草を吸った。
少しずつ心と体を壊してしまう、甘い香りのする草を吸った。
悪行を憂う心が無ければ、もう、手は震えないから。
震えて本願がご破算になるのと、自分が壊れていくのと天秤に掛けて。
彼は自分が壊れていく方を選んだ。

もう一度、細く煙草の煙を吐き出して、彼は瞼を開けた。
煙草のお陰で手はもう震えない。心も、もう、震えない。
少し休憩してくるといって、場から外れた手前、そろそろ戻らないと
皆に怪しまれるだろう。そう思って彼は林から出た。


そして、そこには…彼女が立っていたのだった。
彼女の目は、まっすぐ、彼を見つめていた。
きっと彼女は、彼の新しい秘密を知ったのだろう。
言葉を発しない唇は、硬く結ばれたまま。
そして、瞳は涙に濡れたまま。


「おや、どうしたのですか、望美さん?こんなところで。」

手が、震える。
心が、震える。

「弁慶さん、私…私……!!」

震えが、止まらない。


もう、悪行を憂う心さえ持っていないのに。
どうして君を…君を思うだけで。
こんなに僕の心は震えてしまうんでしょう。


「もう休憩は終わりにしましょう。九郎たちが待ってますよ。」


優しい笑みを浮かべて、弁慶は望美の背を押した。
本当は、手の一つでも握ってやりたかったが、そうすると手の震えが
望美に伝わってしまうので、それは出来なかった。
それほどまでに…手の震えを押さえることが困難だったのだ。

弁慶は望美に気づかれないように、小さく溜息を付く。
また一つ秘密を知られて、望美が傷ついてしまったことに。
傷つくことが分かっていて、それでも尚、望美を手元から手放せない自分に。

弁慶はまだ、そのときには気づいていなかった。

何が、それほどまでに彼の心を震わせていたのかを。
…望美という存在の全てが、彼の人として心を支えていたことを。




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