3.背中合わせ



明り取りの小さな格子窓から、月の光が漏れる。真夜中、天頂を巡る
満月の明かりは、思いのほか明るい。望美はその月の明かりで目を覚ました。
夜目になれ、望美の視界には庵にある日常品が目に入る。土間にある水瓶、
粗末なつくりの葛篭。編みかけの藁草履。きっと振り返れば隣にはリズヴァーン
が眠っているに違いない。


だが、不意に。

本当に、隣にリズヴァーンが眠っているか。

言いようのない位大きな不安に襲われる。


背中合わせで眠っていると、振り返った瞬間、リズヴァーンがいなくなって
いるような気がして怖かった。真夜中目が覚めるたび、背中合わせになるたび
いつも望美は思うのだ。まるであの時みたいに、何も言わず、急に消えて
しまうんじゃないかないかなんて…。リズヴァーンが視界に居ないと言う
だけで、息を吸うごと、瞬きをするごとに望美の不安は募っていく。

きっと振り返ってしまえば、リズヴァーンは心地よい眠りについていて、
「なんだ、心配して損したな」なんて苦笑いできるのかもしれない。
だが、望美には振り返る勇気が無かった。振り返って本当にあの時みたいに
いなくなってしまっていたら。そう考えるだけで、心の奥から湧き上がって
来る不安は、大粒の涙に形を変えた。

望美は褥の打掛をぎゅっと握り締めながら、その不安に耐える。
しかし、込上げてくる不安と涙を止めることは出来ず、また、一粒大きな涙が
望美の眦から零れた。その瞬間。大きな暖かい手が、望美の腰から胸元に伸び、
望美を力強く引き寄せた。


「泣いているのか、神子?」


耳元でリズヴァーンが囁く。しかし望美は答えない。振り返ったら
リズヴァーンがいないんじゃないかなんて、子供じみた妄想の所為で
泣いていたなんて、恥しくて言えるはずも無い。リズヴァーンは
返事を拒む望美の背中を見つめながら、小さく溜息を付いた。


「私が、お前を悲しませているのだな。」
「違います!!」
「では、何故泣いている?」
「先生…それは…私の心が弱いからです。」
「お前の心が?」
「はい。」


望美は観念して、リズヴァーンに面と向かうよう体の位置を入れ替えた。
しかし、溢れ出た涙を急に止めることは出来ず、それを隠すように
リズヴァーンの首元に顔を埋める。そして、望美は柔らかい蜂蜜色の髪や
首筋からリズヴァーンの熱を感じ取った。彼は、ここに居る。その事実
だけが、望美の不安と涙を止めることが出来るのだった。


「…振り返ったら、先生が居なかったらどうしようって。
 急に不安になっちゃったんです。小さい子供みたいで…恥しいです。」
「………そうか。」


リズヴァーンはその無骨な手で、優しく望美の髪を撫でながら、
かつての日々を思い出す。望美を助ける為に、何度彼女を置き去りにしてきた
のだろうか。安全な場所に…望美の命を永らえる為に。自分の願いの為に、
いつも望美を置き去りにしてきた。そして、その度に望美は何度も、
泣きながら…母を求める幼子よりも必至に自分を探していたのだった。
そして今。背中合わせで、少し手を伸ばせば触れ合えるような距離にいても
尚。姿が見えなくなっただけで、望美はその美しい瞳から玉のような
涙を流し、孤独に震えている。


「私がお前に、傷を残したのだな。」
「先生、そんなこと、ないです!」


リズヴァーンの言葉に、望美は顔を上げて訴える。しかし、その頬には、
先程まで流していた涙の後がくっきりと残っていた。それが、リズヴァーンが
彼女に与えた傷の証。リズヴァーンは指でそっと、その傷跡をなぞり、
まだ微かに涙を湛えている望美の目じりを撫でる。


「それならば、何故このように泣いていた?」
「それは!わた…し…が……」


リズヴァーンは目じりを撫でていた指先を、そっと望美の唇に押し当てる。
そして、望美の言葉を止めて、真っ直ぐに瞳を見つめた。


「もし、私との記憶が、お前の傷になるのであれば。
 私のことなど忘れてくれて構わない。」
「せんせ…い…そんな……。」


望美の顔が一瞬にして悲しみの色に染まる。必至で堪えていた涙はあっという
間に瞳から溢れてしまった。そして、リズヴァーンはまた一つ望美を
傷つけてしまったことを知る。


「…本当に、私は…何をやっても上手く出来ない、な。」
「せん…せ…い…ごめ…わ、私が。」
「泣かないでくれ、神子よ。私はお前の幸いを望んでいるだけなのだ。
 その為になら、何を贄に捧げても構わない。」
「じゃぁ、せんせい…」
「どうした、神……ん…」


望美はその唇を重ねて、リズヴァーンの言葉を止めた。リズヴァーンも
その甘美な戒めを甘んじて受け入れる。


「もっと、私を強く抱きしめてください。私に、溺れて…先生が
 もう何も考えれないようになってくれればいい。そうしたら、
 先生がいなくなっちゃうかもなんて…心配しなくて済むから。」
「それが、お前の望みなのか?」


望美は、声に出さず、小さく頷く。月明かりを浴びて、望美の白く肌理
細やかな肌が、桜色に染まっているのがリズヴァーンには夜目にもはっきりと
見えた。恥らう望美の愛らしさに、思わず零れそうになる笑みをぐっと
堪えながら、リズヴァーンは望美の耳元で囁いた。


「ならば、望みは満ちている。お前の悩みは、杞人の憂いに等しい。」
「え………。」
「私は、とっくにお前に溺れている。」
「先生…あ……ん……。」


今度はリズヴァーンが望美の唇を戒める。そして、次の瞬間。暖かく
大きな手が、望美の夜着の衿元からその内へと滑り込むのを、
望美は悦びに満たされながら感じ取ったのだった。




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