先輩が幸せならば、それでいいと思った。
でも、いざ二人が別れてしまいそうな大喧嘩をしていると。
心が、ざわめく……
13.躊躇い
「もーいくつねるとーーお正月ぅ〜♪」
薄暗い救急病院の待合室に、調子の外れた鼻歌が響く。
指に掛けたバイクのキーをくるくると回しながら歌っていた将臣だったが、
背後から矢のような視線を感じて歌うのをやめた。
「よせよ兄さん。場違いだろう!」
「そっか?」
バイクのキーを掌に収めた将臣が振り返ると、左手を三角巾につられた弟が
般若のような形相で仁王立ちをしていた。怪我の具合と形相のギャップに、
思わず将臣が噴出すと、譲の般若の形相は、阿修羅が如くにグレードアップする。
「……わりぃわりぃ。そんなに怒るなよ。
とりあえず、会計まだだろ?座ってまってろよ。一応は怪我人なんだし。」
「……。」
険しい表情のまま無言で隣に座った譲の様子に、将臣は心の中で大きくため息をついた。
どうして自分の周りにはこうも手間がかかる人間ばかりなのだろうか……
まぁ、そういう星の元に生まれてんのか、とあっさり楽天的に結論を下したところで、
将臣は譲に話しかける。
「肩、痛むのか?」
「……まぁ、多少は。」
「左だっただけ、まだマシか。落ち着いたら筋トレしとかねーと。癖になるし。」
「分かってるよ。」
「そっか。でも、大したことなくてよかったな。ついでに煩悩落としきらないで。」
「何がいいんだよ……俺は、断ち切りたいことばかりなのに。」
「……おいおい、男子高校生が全部煩悩断ち切ったらやべえだろって。」
「でも、俺は……。」
そう言ったっきり、ぎゅっと唇をかみ締め、何かに耐えるような面持ちを見せる譲の頭を、
将臣はぽかりと殴った。何するんだよ!と譲はきつく将臣を睨み付けるが、将臣は意に返さない。
「しょうがねーじゃん、なんかむかついたんだもん。」
「……なんだよそれ!こっちは真剣にっ!」
「なぁ、譲……。」
急に改まって名前を呼ぶ将臣の表情は、思いのほか真剣で、譲は思わず将臣を
ののしる言葉を呑みこんだ。将臣は、譲が黙ったことを確認して言葉を続ける。
「無理に消し去る必要なんてねーんだよ。」
「……だけど…。」
「想い続けてきた、お前の気持ち込みで今のお前だろう?想いが叶わないとしても、
その想いの上に新しい想いの形を作っていけばいい。
いずれ、新しい想いの形が古い形を上回り、見えなくなってしまってもいい。
そのまま、ひっそりと芯に熱を持たせてたっていい。ただひとつ……。」
「ひとつ?」
「あいつが泣かなければ、それでいい。」
「先輩が……。」
「ああ。」
そういって笑った将臣は、かつて幼き時、譲や望美が怖いこと……たとえば、
大きな犬に追いかけられたり、急に大雨が降って雷が鳴り出したときに励ましてくれた
ときと同じ笑顔だった。懐かしくて、優しい……あの笑顔だ。
「兄さんは……変わらないな。」
「そうか?俺からみりゃ、お前だって全然かわんねーけど。
つーか腹減ったな。はぁ、もうこんな時間かよ。」
将臣は革ジャンのポケットから抜き出した携帯の時刻をみると、大きくため息をついた。
やはり今年は年越し蕎麦を食べるチャンスを完全に失ったようだ。
「年越し蕎麦、用意してただろ?食べてこなかったのか?」
将臣のため息があまりにも大きかったので、譲は驚いて将臣に問うた。
「いやーまぁ、望美と九郎がな……面倒くさいことになって、食うチャンス逸した。」
「先輩と九郎さんが?」
「ああ。あーーそだ、うまくいけばお前九郎の後釜になれんじゃねーの?」
「な、何不謹慎な事言ってんだよ、兄さん!!」
「あははは、冗談冗談。」
「冗談でも言っていい事と悪い事の違いぐらい、分かるだろ!?」
「俺としては最終的に望美が幸せならいいからなあ。どっちでもいいかな。
両方とも弟みたいなもんだし。」
「弟みたいなもんって…俺はれっきとした弟だろ……全く…
くく……兄さんのいい加減ぶりには…本当、敵わないな。」
思わず苦笑い漏らした譲は、病院の壁に掛けてあった大きな時計を見つめる。
日付が変わるまでには、もう少しばかり時間があるようだ。
「兄さん、病院の直ぐ横に立ち食い蕎麦屋あったよな?」
「ああ、電気ついてたから、やってんじゃねえの。」
「家に帰ってたら年越し蕎麦間に合いそうもないから、そこで食べていこう。」
「お、いいな!でも食い物にこだわりあるお前にしては珍しいじゃん。」
「まぁ、たまにはそんな年越し蕎麦でもいいさ。そして、それを食べ終わったら
先輩と九郎さんを誘って、初詣に行こう。きっと、その頃には……二人とも、
仲直りしていると思うから。」
「だな。……会計とっとと済ませて、腹ごしらえ行くか!!」
将臣が勢いよく立ち上がると、丁度会計の窓口で譲の名を呼ぶ声が聞こえた。
立ち上がる譲を片手で制した将臣が、鼻歌交じりに会計口に向かう。
治療費を払う将臣と、その兄を待つ譲の二人からは、賀正を祝う同じ鼻歌が
軽やかに聞こえてくるのだった。
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