16.束の間の休息



「弁慶!弁慶!!!!」


勝浦の宿の濡れ縁で望美が一人ごろごろしていると、奥の部屋から
随分と大きな声で弁慶を呼ぶ声が聞えた。


「どーしたんですか、九郎さん?」


生憎弁慶は既に出かけていることを知っていた望美は、声の主に
弁慶に代わって返事を返してやった。すると、望美の声を聞いた九郎が、
几帳を蹴倒さんばかりの勢いで濡れ縁に飛び出してきた。


「弁慶はどこだ!望美!!」
「うわぁ…」


必至の形相で問いかける九郎の言葉を聞き流し、望美は九郎の姿に目を
奪われていた。今日の九郎は身なりはいつもの直垂で変らないのだが、
普段は高く結い上げている長髪が、緩やかなカーブを描きながら肩を伝い
腰まで垂れているのだった。


「九郎さんの下ろした髪、初めて見た〜!」
「そんなことはどうでもいい。で、望美、弁慶はどこだ?」
「え、ああ。お出かけになりました。で、夕刻まで戻ってこないって。」
「……はぁ。」


望美の返事に、九郎はがっくりと肩を落とし、その場に座り込んだ。
下ろした長髪が軽く風にゆれ、柔らかく九郎の顔にかかる。その髪を
九郎は鬱陶しそうに掻き揚げると溜息混じりに呟いた。


「どうしたものかな…」
「もしかして、髪形の問題ですか?」
「ああ、生憎髪結いの為の紙縒りを切らしてしまってな。弁慶から
 借りようかと思ったのだが、外出中とは。」
「ふ〜ん…。」


望美は改めて九郎の髪を見つめる。明るい黄金色をした髪は、艶やかで
柔らかく、まるで絹糸の束の様だった。望美は思わず九郎の髪を弄り
ながら、独り言を呟いていた。


「やっぱコンディショナーは椿油なのかなぁ。こんど朔に買ってもらおう…」
「な、なんだ?こんでぃしょなぁとは!?」
「あ、いえ。なんでもないです。えへへ。」


望美は笑って誤魔化すと、改めて九郎の髪を手に取る。毛先まで全く
痛んでない。全国の女子が羨みそうな美髪だった。しかし、望美が弄って
いるあいだも、九郎の顔色は冴えない。いや、冴えないどころか、少し
不愉快そうにも見える。


「よければ、私のヘアゴムかなにか貸してあげましょうか?」
「いや、結構だ。」
「え、あ、そうですか…」


望美の申し出を即断る九郎の言葉の強さと速さに、望美は一瞬カチンと来た。
明らかに鬱陶しそうにしているにも関わらず、望美の親切を断ったのだ。
望美の中にある、ちょっと意地悪な心が不意に鎌首を擡げた。


「鬱陶しそうだから、髪切っちゃいますか?」
「え、…。」


唐突な申し出に、九郎は一瞬唖然となる。しかし、望美の一度擡げた
鎌首は情け容赦なく、九郎に襲い掛かる。


「戦闘中、ちょっと気になっていたんですよね。円陣組むと明らかに
 となり近所の八葉が、髪の毛邪魔そうにしてました。」
「そ、そうなのか…。」


九郎は眉を顰め、暫く考え込んでいた。しかし、急に立ち上がって
奥の部屋に戻ったかと思うと、手に短刀を持ち、望美の元へ戻ってきた。


「じゃぁ、これで切ってくれ。」
「え、あ…」


今度は望美が唖然とする番だった。ちょっと困らせて、変な髪形にでも
してやろうという魂胆だったのだが、当の九郎が髪を切っていいなんて
言い出してしまったのだ。こんなに綺麗で長い髪を、望美のちょっとした
意地悪で切ってしまってよいのだろうか。手渡された短刀が、思いのほか
重く、望美の両手に圧し掛かる。


「本当は、兄上の下へ馳せ参じた際に、源氏の必勝祈願の願掛けで
 伸ばし始めたんだが…。戦いの際仲間の邪魔になるようでは本末転倒
 だからな。」
「そう、だったんですか…」
「ああ、だから自分の髪であって自分の髪ではないというか…神仏に捧げる
 ものだから、あまり他の人間に触らせたりもしていなかったんだ。
 だが、白龍の神子である清浄なお前に切られるなら、問題はなかろう。」


そういうと、九郎はにっこりと笑った。先程までの苦悩は全て吹っ切って
しまったようだった。逆に、望美の顔はさらに曇る。そんな理由があること
もしらず、ただちょっとしたわがままと意地悪で、九郎に髪を切る決心を
させてしまったのだ。


「じゃぁ、頼むぞ、望美!」


九郎は濡れ縁の端に腰をかけると、望美に向かって背を向けた。
迷いなど無く、すっと真っ直ぐと伸びる背中に、柔らかい黄金色の髪が
庭先から吹く風によって、緩やかにたなびいていた。望美は、その髪を一掬い手
に取る。少し癖があるものの、艶やかで柔らかい髪は、力なく開かれた望美の
掌から、その指の隙間から、一筋ずつさらさらと流れ落ちていった。


「………なさい。」
「ん?何か言ったか、望美?」
「ごめ…な……さい。」
「はっきり言わないと聞き取れんぞ?」


九郎は怒りをあらわに、振り返る。しかし、そこには半分泣くのを堪えて、
しかし堪えきれずにすでに涙が零れそうそうな望美が、肩を震わせ
ていたのだった。


「な、何で泣くんだ!?」
「だって……私…」
「だから、なんなんだ、はっきり言え!」
「う……。」


思わず詰問調で九郎が問いただした途端、望美の何かが切れてしまった
らしい。望美は関を切ったように、まるで小さな子供が如く泣きだしてしまった。
泣く子と地頭には勝てないとは良く言ったもの。なんで泣いているのかさっぱり
理解できないのだが、こんなに望美に大泣きされてしまっては、どうやら自分が
悪いことをしたような気がしてならない。九郎は、とりあえず懐から手ぬぐい
を出すと、ぽたぽたと流れる望美の涙を手荒く拭いた。


「…いたい。」
「ああ、すまない。少し加減が強かったか?」


少し赤くなってしまった望美の目元を、九郎は指で優しく撫でる。
そして、やっと落ちついてきた望美に極力優しく言葉をかけた。


「で、何で泣いたんだ。」
「…ごめんなさい。」
「謝らなくてもいい。」
「だって…九郎さんの髪の毛に、そんな大切な意味あるの知らなかった
 のに……私……軽々しく切っちゃえなんて。」
「うわ、だから泣くなって。」


また溢れそうになる望美の涙を、今度は優しく手ぬぐいで拭きながら、
九郎は小さく溜息を付いた。普段はリズヴァーン直伝の太刀捌きで
怨霊を滅多切りにするくせに、今の望美はまるで何も出来ない幼子の
ようだった。自分の失敗を責め、一人怯えて泣いている。しかも
高々、九郎の髪を切るか切らないかなんて事で、だ。思わず抱きしめて
やりたくなる衝動をぐっと堪えて、九郎は望美の頭をポンと一つ叩き
一つの提案をする。


「とりあえず、髪は切らなくていいのだろう?」
「…うん。」
「じゃあ、お前のへあごむとやらで、俺の髪を結ってくれ。」
「でも、他の人に髪を触れさせるのは…」
「いいさ。お前なら。」


九郎ははっきり言い切ると、望美の手から短刀を受け取り、再度望美に
背を向けた。望美も小さく頷くと、自分の部屋からヘアゴムを取ってきて
九郎の髪を結い始めた。


その日の夕刻。


出先から戻ってきた弁慶は、足湯で足を清めると、直ぐに九郎の部屋に
向かった。手には小さな小箱を持っている。


「九郎、いますか?」


返事を待たずして、弁慶は九郎の部屋へ入る。すると、文机に向かう
九郎が振り返った。


「……。」
「おお、戻ったか、弁慶。…どうかしたか?」
「え、ああ、いや…ほら、キミの髪結い用の紙縒り、もう直ぐ切れる
 かと思いまして。ついでに市で買ってきたのですが。」
「気が利くな、弁慶。助かる。」

そういって満面の笑みで紙縒りが入った小箱を受け取る九郎の髪は、
高々と結い上げているのはいつもと一緒であったのだが、その先が
ものすごいことになっていた。細い三つ編みに色とりどりのビーズが
ちりばめられており曼荼羅に描かれた菩薩よりも、遥かに色鮮やかで
あった。


「えーーと、その髪は…。」
「紙縒りをきらしてな。望美に結わせたら、こうなった。」
「…。」
「少々奇抜な気もするが、望美が満足そうだったから良しとした。
 まぁ、戦いのない日ぐらい、こんなことがあってもいいだろう。」
「はあ、そうですか…」


あまりの奇抜さに二の句が次げない弁慶を尻目に、九郎は望美の泣き顔を
…そして、それからの笑顔と、髪を結う際に触れた柔らかな指先を思い出し、
小さく笑ったのだった。




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