18.波間
「舟遊びをしよう。」
濡れ縁からどこか遠くを見つめていた女が、ぽつりと一言言葉を漏らした。
女の言葉に、男は物憂げに同意の意を示す。本当は舟になど微塵も
乗りたくないのだが、舟遊びは鄙へ下った男が、女に与えれてやれる数少ない
楽しみごとのうちの一つであった。女は男と下向するために、己が連なりを全て捨てた。
故に、男は女の願いを無碍にすることも出来ない。男は気だるげに立ち上がると、
御付の女房に出かける支度をさせた。
静かな水面に小舟を浮かべ、緩やかに過ぎる風景を見遣る。幾度となく
繰り返される風景。そして、幾度となく繰り返される、女の眼差し。
女は無言のまま、静かな水面を見つめていた。漣の合間をぬって、
まるで何かを探すかのように。ただ、じっと水面を見つめている。
その眼差しは、慈悲深く…そして切なく。決して、男には向けることがない遠い眼差し。
じわり、じわりと不快感がせり上がる。だから、舟になど乗りたくなかった
のだと、後悔ばかりが胸の奥を支配する。そんな男の心の内など察することも
なく、女は未だに静かな水面を見つめている。交わることのない眼差しに、
業を煮やした男が、不意に行動を起こした。
「舟遊び……か。」
いつも渋々ながら、彼は私の誘いに乗ってくれる。多分、私に気を使って
くれているのだろう。都から遠く遠く離れた彼の知行国は、華やかさの一つ
もありはしない鄙びた土地だったから。楽しみなんて片手で十分に数えられる
ぐらいに少ない場所だ。しかし実のところを言うと、私はどんな鄙びた土地
でも不服はなかった。彼と共に歩める道がある、そのこと自体が砂漠で一枚の
コインを探すよりも困難な奇跡であることを、遙かなる時空を彷徨った私は、
十分すぎるほど理解していたから。
静かな水面に小舟を浮かべ、私はそっと波間を見つめる。あの海に沈む彼の
姿を、何度なす術もなく見送ったのだろう。私は、目を凝らす。そこには
何も見えない。私は何度でも目を凝らす。そこにはやはり何も見えない。
そして、私は納得するのだ。波間に彼がいないのは、今…私の側に、彼が
いてくれるからなのだと。
今日もまた、その事実に安堵した瞬間、不意に舟が大きく揺れた。
望美が大きな揺れに驚き、知盛の方へ振り返ると、今まさに知盛がバランス
を崩し、船縁から水面に落ちようとするところだった。
「知盛っっっ!!!!!」
望美は我を忘れて、知盛へ腕を伸ばす。しかし、その手はまるであの時と
同じように空を切った。
「いやあああああああ!!!!」
望美は絶叫を上げる。ただ、あの時と違ったのは、誰も望美を止める者が
いなかった事だった。知盛とこの異世界でともに歩む為に、望美は全てを捨てた。
今、望美の願いを妨げるものは、只の一人もいはしない。故に望美は、大きく手を伸ばす。
そして、知盛を追って…水面へ落ちた。しかし、盛大な水音を立てて落ちた望美は、
知盛を助けることはおろか、重ね着をした衣が水を含み、泳ぐことすらままならい。
慌ててかいた両の手は、水を無意味に掻き混ぜるだけで、なんの助けにもならなかった。
息をしようと開いた唇からは、大量の水が流れ込む。。このままでは自分も…と死の予感が
望美の脳裏に駆け巡った瞬間、急に呼吸が楽になった。そして、感じる…知盛の体温。
気が付けば、知盛を助ける為に飛び込んだはずの望美が、知盛に助けられ、抱きかかえ
られていたのだ。
「まさか……泳げない、とはな。」
「そ、そんなことないよ…」
「ククク…どうだか。でなければ、よもやこんな浅瀬で溺れる訳あるまい?」
「え……?」
知盛に言われて、望美は辺りを良く確認する。そして、そっと足を伸ばすと
…ぎりぎり水底に足が着いた。
「……。」
「お前が余りにも波間ばかり見つめているのでな…戯れがてら、水に落ちて
みた。波間から見るお前の顔は……なかなかそそられる、な。」
ククと咽喉の奥から笑い声を漏らす知盛に、ようやく望美は自分が一杯食わ
されたのだということに気が付いた。途端に顔が熱湯の様に上気してくる
のが分る。水に落ちた知盛を追う自分の表情は、相当必死だったことだろう。
そんな知盛の稚気に腹立たしさを感じた望美だったが、それ以上に…いや、
遙かに強く、知盛を失わなくて済んだのだという安堵が心の中を支配した。
そして、その結果…ぽつりと一粒、涙が零れた。
知盛は、望美の様子に目を見開き、自分の稚気が過ぎた事を知る。観念した
ように小さく溜息を落とすと、知盛はそっと望美の耳元で囁いた。
「…波間ばかり見つめる、お前が悪い。そんなものなど見ていないで、
俺を見ろ。今、ここにいる……この俺だけを。」
望美に返事はない。望美が返事をするよりも早く、知盛の唇が、望美の
唇を覆ってしまったのであった。
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