4月9日



授業終了のチャイムが鳴る。暮れなずむ夕日を背に、原は小隊隊長室へ向かっていた。彼女の顔には
疲労の色が濃い。今日はとうとう一度も授業に出ず、整備主任自ら士魂号の整備にあたる羽目になって
しまった。これで極楽トンボは必至。明日は笑いものになるわ…とひとり苦笑いする。だが、そんな
発言力の低下より、今の原には時間と部品が欲しかった。先日壬生屋が士魂号を大破してくれたおかげ
で、最後の予備機を使うという事態に陥った。無論、最大限に整備は行っているものの、強化パーツの
一つも無くては…アレに人間を乗せるのは怖い。歩くことも儘ならぬ子供に戦えと言っているような
ものだった。そのため何とかパーツを手に入れるよう、善行と掛け合うつもりだったのだ。

小隊隊長室に到着する。しかし、いつもは開け放たれているドアがぴたりと閉まっており、なにやら
中から人の声がする。どうやら先客がいるらしい。とりあえずノックするかどうか、原が思案している
間に、そのドアが急に開け放たれ、中から若宮が出てきた。急に開いたドアに驚き、思わず原は
よろけてしまった。


「きゃぁ……!!」
「あ、素子さん!!」


若宮が瞬時によろけた原に手を差し出す。しかし、その手はやや見当外れの場所で空を切ったの
だった。思わず、目を見開き、その空を切った手と…そして若宮の表情を見つめる原。


「す、すみません。素子さん。俺としたことが…」
「え、あ、いいのよ。私が勝手に驚いただけだから。」


原は体勢を立て直し、再度若宮を見つめる。そして、表面上は満面の笑みで…そして、内心眉根を
顰めて若宮に話しかけたのだった。


「善行に用事だったの?」
「はい。もう済みましたが。お待たせした上に、驚かせてしまってすみませんでした。」
「ううん。別にかまわないわ。」


若宮は、満面の笑みで原に一礼し、その場を立ち去った。原はその強く逞しい背中が見えなくなるまで
見送って小隊隊長室の中へ入っていった。


「…今日はお客さんが多い日ですね。」
「まぁ、私は招かれざる客ってところ?」


薄暗い小隊隊長室の最奥で、善行が眼鏡をクィと持ち上げているところだった。そして、机の上に
置かれた一通の封書をデスクの引き出しにしまった。原は、その善行の真ん前まで言って…挑発的に
話しかけようとした。しかし、原の登場は既に善行にとっては予測済みの行動だったらしく、軽く手を
上げて原がしゃべりだすことを制した。そして、椅子に座ることと…日本茶を勧めたのだった。


「貴女だから、ハッキリ申し上げましょう。武器もパーツも食料も…もはや限界なのです。
 加藤さんの裏ルートはもとより…芝村の力をもってしても。」
「…そう。」


直談判をするべく乗り込んできたものの、こうまでハッキリ無理と言われてしまうともはや何も
言うべき事柄が見つからない。そして、ある一つの…新しい気がかりが出来たことを、つい原は
口にしてしまった。


「それより、若宮君大丈夫なの?」
「………。」
「早めに取り替えたほうがいいんじゃないの?若宮君、アレ使ってるでしょう。
 吉野先生の二の舞になられても困るし。」
「…もらえませんか。」
「は?何?」
「若宮をモノ扱いするのは、やめてもらえませんか?」


その口調とはかけ離れた、激しい感情を湛えた瞳が、一瞬善行の色の付いた眼鏡から透けて見えた。
その圧倒的な威圧感に、原も口を閉じる。善行は軽く首を振り、そしてまた、元の飄々とした表情
にもどって言葉を続ける。


「アレは…心より先に体を壊してしまうから。吉野先生の二の舞というようなことには
 ならないでしょう。」
「………。」


善行と原の間に気まずい空気が流れる。善行は、ゆっくりと冷えたお茶をすすった。そして何事も
無かったかのように、温和に話し始めた。


「先ほど若宮がね、遺書を持ってきたんですよ。」
「え…遺書?」
「ええ、遺書です。」


さらにもう一口、冷えたお茶をすすると、窓の外の…正面グランドの方向をぼんやりと見ながら、
善行は話を続けた。


「無論、貴女もご存知の通り、若宮タイプには遺書を書く権利などありません。
 渡す相手がいませんからね。でも、以前…士官学校にいたときに、若宮に言ったことがあるんです。
 もし、渡す相手が出来たら、遺書を書けばよいと。」
「…それで、今日持ってきたの?」
「ええ。新井木さん宛でした。」
「まさか、中身見たの?」
「ははは。さすがにそんなプライバシーの侵害はしませんよ。まぁ、察しはつきますが…」


そして、再度ぼんやりと正面グランドの方向を見やってから…善行は不意に、左手で原の左手を
握ろうとした。しかし、その手が原の左手をつかむ前に、善行の動きを察した原が慄いて左手を
引っ込めた。


「ちょっ!!何すんのよ!!!」
「ははは。普通、そうですよね。」
「あ、当たり前じゃない!!左手には多目的結晶が埋め込まれてるのよ?そんなことしたら…」
「お互いの感情が流れ込んできますよね。」


関東者の善行は多目的結晶を埋め込んではいなかったが、リングを実装していた。多目的結晶同士
ほどではないにしろ、もし触れ合えば間違いなく、お互いの感情が、意思が、思考が流れ込んでくる
だろう。そんなことをしようとすれば、普通、嫌悪感を抱かれる。


「いやぁ…若宮がね。新井木さんと、左手を重ね合わせたといっていたもので。」
「は?左手を?」
「ええ。左手を、です。」


原は唖然として声もでない。そんな原の様子を、楽しげに見つめる善行。久々に、素子のいい表情を
見れたな…そう内心呟いたのはおくびにも出さず、善行は言葉を続ける。


「若宮、曰く…すごい!そうですよ。」
「何それ…訳分からないじゃない。」


ははは、と声を上げて善行は笑う。つられて、原も笑い出す。ひとしきり二人で笑った後、原がぽつり
としゃべりだした。


「若いのね、二人とも。いいわね、純真で。」
「もう、私たちぐらいの歳になると…無理ですからね。」
「あら、きっとあなたなら若くても無理でしょうよ。」
「それはお互い様でしょう。」


そういうと、善行はゆっくりと右手を原の右手に重ねる。今度は原も逃げない。何も感情を垂れ流す
ことが無い右手は、ただ、ゆっくりとお互いの熱のみを伝えあっていた。善行は、右手を重ねたまま
原に話しかける。


「若宮も…歳を取ったんですよ。見た目はね、変わらないですけれども。
 守るべきものが出来た。戦うこと以外に意義を見つけた。それが…上官として見て…彼にとって
 最善なのか判断は付きかねますが。少なくとも私個人としては、いいことだと思っています。」
「そうね…まぁ、親衛隊隊員が減るのはちょっと残念かしら、って気もするけど。」
「貴女の親衛隊隊員なら、掃いて捨てるほどいますから。大丈夫でしょう。」
「ふん。よく言うわね。」
「まぁ、閑話休題はこの程度にして。…正直、この2、3日が勝負だと思ってます。
 無論、テクノにも重大な負担がかかっているのは分かっています。しかし、次の戦闘をどの程度
 の消耗率で乗り切れるか。それが…夏まで熊本を維持できるかに直結してくる。だから…」
「分かってる。泣き言は言わない。私だって伊達に副司令と呼ばれている訳じゃない。」
「…よろしくお願いします。」


善行は最後に、「素子」と彼女の名を呼びそうになったが、胸のうちに堪えた。そして、原の右手を
その代わりに強く握った。原も、その手に答えて強く握り返す。先ほど同様、伝えてくるのは熱ばかりで
あったが、多目的結晶など無くっても唯一つの感情だけはお互いに伝えあう事が出来た。不意に、
お互いを見詰め合う。しかし、既に純真でなくなっている二人は、すぐにお互いから目をそむけた。


「…とりあえず、裏マーケットに手を回して、強化パーツの類を何とか手に入れましょう。」
「こっちも、壬生屋さんの神経接続をなんとかするわ。また徹夜になるだろうけど…
 本当、美容に悪くってしょうがないわよ。」


そう憎まれ口をたたいて、原は善行の右手を離した。善行も、所在無さ気になった右手を湯のみに
のばす。


「じゃぁ、よろしくね。」
「ええ、こちらこそ。」


原は、軽く手をふって小隊隊長室から出て行った。その原の背中を善行は無言で見送る。
そして、デスクに肘をついて、微かに…昔のことを思い出した。若宮と出会ったこと…原と出会った
こと。まだ、戦争がリアルではなく、どこか他人事だった日々。善行は一つ溜息を付いて、
戦区の地図を開く。この2、3日の善行の指揮次第でその思い出が…永遠の過去となりかねないのだ。
まだ、善行には…そんな永遠の過去の思い出にする気はなかった。だから最善を尽くす。
そう、先に進んでいくために。


この数時間後、阿蘇特別戦区に絶望的な数の幻獣が投入され、1999年春・最大の戦闘が発生する。
しかし、4月9日の善行や原には知る由も無いことであった。






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*Thanks 1001HIT紫苑b 様