贖い
白い肌の上を、優男の指が滑らかに走る。
薄く開いた唇、軽く閉じられた瞳。黒々とした睫を軽く弄んだかと思うと、その指は
まるで悪戯をする子供のように軽やかに、方向を反転させた。そして、頬骨から、顎の線を
微かに触れるような足取り…いや指取りで撫でた後、細身の鎖骨を通過し、その先にあるであろう
柔らかな双丘を目指した。
しかし。
そこに、それはなかった。
その代わりにあるのは、不細工な音を立て、彼女の命を仮に繋ぐ為だけの機械。
関東に帰還した善行が配下2万の兵を引き連れ、熊本入りしたあの日。真夏の暑い最中…
本来起こるはずではないことが起こった。5121小隊守備地区での幻獣の発生である。
しかも運の悪いことに、熊本入りをした善行との会談のため、司令である速水と…その補佐を
執り行っていた芝村が不在であった。本来なら、速水の帰還を待つなり、指示を仰ぐなり
すれば良かったのだろう。いや、そうしなくてはならなかったのだ。しかし、次第に市街地に
近づき始める幻獣の群れを彼女は看過することが出来なかった。
壬生屋未央万翼長。
日々の努力と研鑽の結果、彼女はその場で一番高い位置にいた。一応セオリーに則り、彼女は
上官である速水に連絡を取った。しかし、2万名の兵士の熊本入りの混乱によって連絡を取ることは
かなわず、彼女はすぐに連絡を取る努力を放棄した。市街地に迫り来る幻獣とその様に怯えるだろう
一般市民の様子が、幾戦の死線を潜り抜けてきた彼女の心の中に焼きついていたからだった。
その結果、彼女はその現場の最上位の兵士として…代理司令として、出撃を5121小隊に命令した。
「でもさぁ、何で滝川なんだよ…お前。」
優男…もとい、瀬戸口は触れることが躊躇われるその機械から手を遠ざけ、再びその指で唇を
撫でた。きっと、普段なら瀬戸口がそんなことをすれば、雄たけびを上げ、鬼シバキでぼっこぼこ
にされるのがヤマだっただろう。しかし、今の壬生屋はまるで眠り姫のように微かな笑みを浮かべ
微動だにしない。
「バカ、としか言いようが無い。」
代理司令として出撃を言い渡した壬生屋だったが、そうすると士魂号のパイロットが足りない。
芝村が同乗しない複座のミサイルの制御能力は、いささか心もとない。そうすると残りの
パイロットは滝川一人になる。なんとか閉所恐怖症も克服して、一人前に近い状態になった
滝川であったが、普段の戦闘ではロングレンジからの狙撃が中心で率先的に敵を攻撃する
タイプではなかった。しかし、そんな滝川であったがつい最近司令の技能資格を得ていた。
それを思い出した壬生屋は、戦闘の指揮を滝川に任せ、自分は重装甲の士魂号一号機で出撃を
したのだった。
そして。
結果論的に言えば、それが裏目に出た。
初めての戦闘の指揮で高揚していた滝川は、いつも以上に好戦的に仕掛けていった。
基本的に前へ前への壬生屋の乗る一号機は、いつも通りでさもあらんといった所だったが、
問題は後方の指揮車…オペレーターたちも、随分と前に出てしまっていた事だった。
気が付いたら、ナーガの長いレーザーの射程に入ってしまっていた。逃げようにも、遮蔽物は
なく、じりじりとレーザーのダメージを食らう。そして、ついに恐れていた事態が発生した。
「指揮車、自走不能!」
「なんだよ!!!こんなところで…クソっ!!!」
「まーまー荒れなさんな。とりあえず、滝川司令、降車。ケツまくって逃げるが勝ちだろ。」
「…分かってるよ。でも…ししょ…じゃねぇ、瀬戸口オペレーター…お前は?」
「レディーのエスコートしながら。な。ほら、とりあえず先降りろ。そーじゃねーと
俺達が降りれない。」
「…分かった。でもその前に。」
自分の到らなさを噛み締め、今にも泣きそうな顔をする滝川は、それでも、司令として最後の命令
を遂行した。近隣小隊に対して航空支援の要請をしたのだった。そんな滝川を送り出して、
瀬戸口は一つ溜息をついた。瀬戸口や滝川は戦車兵用の…とりあえず素っ裸よりはマシな程度の
ウォードレスを装着していたが、瀬戸口がエスコートすべきレディ…ののみにはそれが無い。
小さな子供である彼女には装着できる適当なウォードレスが無かったのだ。そして、そんな子供でも
戦場に駆り出され一人の兵士として死力を尽くさなくてはならない。
「たかちゃん、ののみ…おそとでるの、こわい。」
「…でもな、ののみ。今出ないと…っっっ!!!!」
激しい衝撃が車内を貫いた。どうやら降車するタイミングを逸してしまったらしい。
なんとか、目視で敵を確認すると…前方にナーガよりも性質の悪い幻獣が視界に映った。
「クソ!!!夏なのに…なんでミノタウロスなんて彷徨い出てくんだよ!!」
どうやら、今の衝撃は生体ミサイルが近くに着弾した衝撃だったらしい。もはや、ののみを
連れて降車することは無理だろう。瀬戸口は覚悟を決めて、ののみを抱きしめる。
「たかちゃん…」
「大丈夫だよ、ののみ。すぐに良くなる。」
しかし、先ほどの衝撃から随分時間がたっているのにも関わらず、第二波の攻撃がこない。
何とか動いている通信機械をセッティングして、瀬戸口は戦場の状況を把握した。
「あんの、バカ!!!!」
「たかちゃん…。あ、みおちゃんだ…。」
そう、最前線で戦っていた壬生屋が指揮車が自走不能と分かるや否や、敵に背を向ける危険を
省みず指揮車の防衛に回ったのだった。とりあえず、ナーガをつぶし、今は指揮車の眼前にいる
ミノタウロスと対峙している。しかし、明らかに状況は壬生屋にとって不利だった。元々先頭を
切って戦う壬生屋の機体は被弾が多い。その上、指揮車の防衛のため、途中で相当被弾したようで
既に士魂号の左腕はもげかかっている。それでも壬生屋は一歩も引かず、ミノタウロスと戦って
いた。
「畜生!!」
瀬戸口は臍を噛む。もはや、壬生屋の行動が意図することは明快だった。指揮車の…ひいては
中にいる瀬戸口やののみのために盾になる。そのためには…自分の命を惜しむつもりは無いのだろう。
士魂号の左腕はもげ、片膝をつき、防戦一方になっている。元来なら、既にパイロットは降車し、
適当に離れたところで士魂号を自爆させなくてはならない頃合だった。ところが、その気配が
全くない。いくら火器を持ち合わせていない壬生屋の機体であっても、自爆用の火薬は常備
されている。持っているのに、あえてそれを使わないのは…そう。ウォードレスを着用していない
ののみが真後ろにいる限り、壬生屋にそんな選択肢はありえなかったのだ。
だから。
ただ、ひたすらに、壬生屋は耐えた。
来るのかどうかさえ分からない、近隣小隊の航空支援を待って、耐えた。
自分の判断が招いた結果に、壬生屋は自分の身を呈して…耐えた。
愛しいものが…死にゆく恐怖に耐えた。そして、迫りくる…自分の死の恐怖に…
「壬生屋…聞こえるか!!壬生屋!!!」
「せ、瀬戸口……君、ですか…」
何とか、壬生屋の機体との通信をセッティングした瀬戸口が叫ぶ。
士魂号の通信設備もかなりダメージを受けているらしく、激しくノイズが混じったが、
確かにその声は壬生屋のものだった。
「壬生屋、引け。俺達はなんとかなるから。お前は…動けるうちに、引け!!」
「いいえ、私は引きません。私が招いた結果ですから。だから…」
「そんなことはどうでもいいだろ!!だから…生き急ぐな!!命を粗末にすんなよ!!」
しかし、ノイズは激しくなる一方で、大きな衝撃音とともに、一度回線が切れた。
必至に繋ぎ直す瀬戸口を尻目に、回線は復旧せず、辛うじて一方通行に壬生屋の声が聞こえてきた。
「…死にたくないと、醜く私が泣き叫べば…瀬戸口君…それでも、私を許してくれますか。」
「壬生屋…クソっ!!!」
ノイズ交じりの音声に、瀬戸口はただ、壬生屋の名を呼ぶしか手立てが無かった。
「…痛いから…醜いのではなくて…あなたが…他の人と仲良く歩くかもしれないから、
死にたくないのでしょうね。…。…死にたく…ありません…。
…死にたく…あり……いや…いや…っ。…。」
迫り来る自分の死の恐怖に狂いながらも、壬生屋は結局一歩も引くことは無かった。
片膝を付いた士魂号は、それでも凛として…そう、まるで彼女の生き様と同じように背筋を
伸ばして、大破した。丁度時を同じくして、近隣小隊からの航空支援が入り、ミノタウロスは
幻に帰した。その効果により一気に戦況が変わり、他の幻獣達は撤退を始めたのだった。
その直後、後方の補給車に待機していた原・岩田を中心とするテクノの部隊が救援に駆けつけ、
微かに生存反応が出ていた壬生屋を回収した。そして、ラボに直送された翌日、瀬戸口は岩田に
呼び出されたのだった。
「壬生屋は…生きているのか!!!」
壬生屋がいる病室の前で、今にも掴みかからん勢いの瀬戸口を、まるで舞いでも舞うように
軽くいなした岩田は、さらに一回転くるりと回って、一礼した。そして、可笑しいのか、悲しいのか、
分からないような顔つきで瀬戸口にその事実を伝えた。
「彼女は、生きています。…だけど、生きているだけです。」
「…なんだよ…それ。」
堪えきれなくなった瀬戸口は、面会謝絶と書かれた札には目もくれず、壬生屋の病室に
飛び込んだ。そして、その瞳に映ったのは…体中を管につながれ、人工心肺によって辛うじて
生きている、壬生屋の姿だった。かつて、美しく豊かだった緑の黒髪は剃り落され、剥き出しに
なった頭部には何箇所も電極のようなものが張られていた。そして、胸からは、数々のチューブ。
さらに下の方に目をやると…袴の裾から微かに見える足首が色っぽいなぁ…なんて、思った
事もあった壬生屋の足が…足があるはずの場所に…上掛けされている布からは、そのふくらみは
感じられなかった。無言になる瀬戸口を、まるで関心が無いかのように一度岩田は見つめて、
言葉を続けた。
「生きているだけなんです。ここまで欠損が多くなるとクローニングも不可能ですし。
とりあえず、彼女の血筋が今後残す必要性があるかどうか…その検討のために一時的に
この世界に留めているだけに過ぎません。あの人工心肺のモニターが映し出す心拍数の波が、
彼女の生の全てです。スイッチを切れば、それでおしまい。」
珍しくギャグの一つも絡めず、そこまで言い切ると、岩田は病室から出ていった。
そして、もはや生きているだけとなった壬生屋と、瀬戸口が病室に残される。
「…生きている、だけか。」
瀬戸口は、壬生屋に恐る恐る触れる。
薄く開いた唇、軽く閉じられた瞳。黒々とした睫を軽く弄ぶ。白く、柔らかい壬生屋の肌。
もはや、動かない壬生屋の体。瀬戸口は、壬生屋の、辛うじて残された右手を握った。
「本当に…お前、バカだよな。お前は…お前の血で贖って、俺を救って満足なんだろう?
まるであの希代のペテン師みたいに、人を救えたと思って満足なんだろう?
十字架に磔られて、さらし者にされて…丘の上で処刑されたって幸せなんだろう?」
瀬戸口は壬生屋の右手を握ったまま、ズボンのポケットを弄った。
「ペテン師の母親が、その様を見てどんな悲しみに暮れたかなんて、
お前、考えたことないだろう。何時だってそうだ。お前、自分のこと棚に上げて…
人のことばっかこ五月蝿く言ってさぁ…。本当にもう。最後の最後まで…」
瀬戸口は壬生屋の右手を強く、握り直す。そして、少し肩をすくめて、笑った。
「仕様が無いから、お前の望み、叶えてやるよ。お前が贖った血の代わりにお前の望みを。」
そう言うや否や。瀬戸口は人工心肺のスイッチを切った。不細工で耳障りな音が止まった後、
病室にパーンと乾いた銃声が鳴り響き…そして、ほんの僅かの間ではあったが、
二人の間に永遠の静寂が訪れた。
go to novel
go to home