幸せな王子



ハンガーの裏、階段の下で遠坂は一人地べたに座り込み、人を待っていた。
手持ち無沙汰に鼻歌を歌った後…遠坂は、じっと己が両手を見つめる。
その両手は、機械油にまみれ、爪先は汚れていた。ところどころに肉刺が出来、それがつぶれ、
そのまた上に肉刺が出来て厚みを増していた。それは、かつての彼の手とは程遠く。
まさに、労働者の手といったところだった。

その両手を見つめ、遠坂は一人、にっこりと笑う。

かつて、彼の両の手は白く、肌理細かく、それは美しい手をしていた。
絹の服をまとい、これ以上はない、最高級の薔薇のエッセンスを用いた石鹸で体を洗う。
それは、市井の者には想像も付かない、至上の生活。ありとあらゆる欲望が満たされ…
貧しさも恐怖も無い、誰もが夢見るような幸せな暮らし。しかしながら、そこには無かった。
何かが、無かった。


「なぁ、遠坂。ちょっと次の給料出るまで厳しくってさぁ…お前、こういうの好きだろ?」
「ああ…紙飛行機ですか…素敵ですね。」
「じゃぁ、そっちの延べ棒と交換しねぇ?」



幸せな王子は、それは美しい王子でした。身は黄金、瞳はサファイヤ。その美しい形をした唇は
ルビーで出来ていたのです。かつてこの国を治めた美しい王子の姿にあやかって、街の金持ちが
広場の真ん中に王子の像を建てたのでした。その美しい王子はありとあらゆる人から誉めそやされ
ました。街の金持ちもその王子の名声に…ひいてはその像を建てた自分の名声に酔いしれました。
しかし、王子はちっとも幸せではありませんでした。何故なら今日も王子の目の前で、家も無く、
身よりも無く、今日の食べ物にも事欠くような少女が「幸せな王子」の前にいることが
ふさわしくないという理由だけで、殴られ、蹴られ、広場から追い出されしまうのを見たからです。
王子は美しい身なりと同じぐらいに美しい心を持っていましたが、像なので動くことは出来ません。
哀れな…ひとめ幸せな王子を見て、その幸せにあやかりたいと思った少女が半殺しの目にあうのを、
ただ、ただ、見つめるしかすべが無いのです。そんなある日、王子の肩に一羽のつばめがとまった
のでした。



「あなたが、それを望むなら。」
「おう!助かったぜ遠坂。サンキュー!!」


物を受け取ると足早に立ち去る級友の後姿をぼんやりと眺めながら、遠坂はすっかり軽くなった
上着の内ポケットに手をやった。そこには、かつて彼の衣服を重くした金属の塊や高価な品々は
何一つ入ってなかった。その代わりに入っていたのは…てるてるぼうずや紙飛行機の残骸。
そう。先ほど級友に紙飛行機と交換した金の延べ棒が、彼の最後の財産だったのだ。
遠坂の父親は熊本では有数の貿易会社を営んでいた。しかし、それは表向きで裏では武器や麻薬
などの密輸入品を阿漕な手段で売りさばいていたらしい。無論、軍や公権力とも結託しており、
その実情が露見する可能性は皆無に近かった。だが順風満帆のように思えた遠坂の父親であったが、
ある日を境に風向きが変わった。



王子はつばめに言いました。私はこの場所から動くことが出来ないから、もしあなたが不幸せな、
手助けがいる人を見かけたら、私の体から金を剥ぎ取ってその人に分け与えて欲しいのです、と。
つばめは王子の美しい心に涙し、その申し出を快く受けたのでした。そして、その日からつばめは
王子の優しい心を分け与えるため、休むことなく働き始めたのでした。



「戦争が終わる…なんて幸せなことなんでしょう!」
「ああ、そうですね。もう人が死ぬことも…なくなるんですね。」



父親の仕事が上手くいかなくなった。その変化を遠坂は戦争終結の流れ…つまり平和の訪れとともに
肌身を持って知った。父親の機嫌が日々悪くなり、食事の質が落ちた。数多くいた召使達もあっと
いう間に数が減った。それはまるで、沈没する船からまず最初に鼠がいなくなるのと同じように。
気が付いたら、古くから勤め上げてくれた年老いた執事以外、誰も残らなかった。それでも、
見栄と意地で表向き上は以前と変わらぬ生活送ろうとする両親と、病弱な妹の医療費で、金は
湯水のように使われた。そして、遠坂の級友も以前と同様、なんの価値も見出せないようなガラクタ
と金の延べ棒の交換を申し出た。



その日を境に、幸せな王子は少しずつ、醜い姿になっていきました。美しいサファイヤの瞳は
病気がちな母子に。その燃えるような赤い唇は子をなくした年寄りに。そして金色の衣服は
身寄りの無い子供達に。少しずつ、少しずつ、分け与えられたのでした。そしてとうとう王子は
丸裸になりました。ただの黒々とした醜い像になってしまったのです。その醜い王子の肩に
つばめが息も絶え絶えにとまりました。つばめは王子の真心を届けるため、日々休むことなく
命を削って働いたのです。王子はつばめに言いました。本当にありがとう。君のおかげで
私は真に幸せになることが出来たのだ。つばめは言いました。いいえ、私こそ、あなた様に
お礼を言わなくてはいけません。私は王子の美しい心を、人々に配ることが出来ました。
それはなんと幸せなことでしょう。つばめはそう言ってにっこり笑うと、ゆっくりと目を閉じ
動かなくなりました。王子はつばめに再度心の中で礼を述べ、もはや見えなくなった目で
天を仰ぎました。それから数日後、醜い像をみた街の金持ちは、このような醜い像や死骸が
あることを不愉快に思い、街の外れのゴミ捨て場に王子とつばめを捨てました。



本当は、拒もうと思えば拒むことは出来た。本当は、金の延べ棒が必要なほど逼迫してはいない
のかもしれない。それでも、まるでお人よしか何かのように、遠坂は金の延べ棒をくれてやった。
何故なら、それはもう遠坂にとって必要ではないと分かってしまったからだった。
そう、それはまるで金色の衣を身にまとった王子が、自分が幸せではないと気が付いてしまった
かのように。自ずからの意志で身包みを剥いだ王子は、ゴミ捨て場に捨てられた。
そして財産を手放した遠坂は、機械油にまみれ、地べたに座り込んでいる。



「あ、お、お待たせしました!遠坂さん…
 じ、時間を無駄にさせちゃって。すみません。」
「いいえ、待ってなんかいませんよ。
 こうやって貴女を思う時間に無駄などないのですから。」


遠坂は、ようやっと現れた少女を地べたから仰ぎ見る。良く見るとストッキングが伝線している。


「ああ、少し伝線していますね。
 その…新しいものは買って差し上げられなくて…申し訳ない。」
「え、あ、あ…いいんです。そんなの、いいんです。」


少女の顔が真っ赤になる。そう、少女は以前…大穴が開いていたストッキングを穿いていたところを
遠坂に見られ、挙句新品のストッキングを校舎裏でこっそりと手渡されたことがあったのだった。
その恥しさはいまだかつて体験したことが無く…手渡された途端思わず卒倒してしまった。
しかし、それが縁で憧れだった遠坂と付き合うと言うことになった。人生何が吉と出るかは
分からない。


「そうですね。また貴女が卒倒してしまっては、困りますから。」
「…そんな。」


遠坂はにっこり笑うと立ち上がり、彼女の…田辺の手を掴んだ。遠坂の疲弊した手に、田辺の
暖かさが伝わる。そこには、確かにあった。以前遠坂が金色の衣に身をまとっていたときには
持ち得なかった、何かが。


「それでは、うちに帰ったらストッキングを紡いで上げましょう。先日露西亜の職人が器用に
 紡いで直しているのをテレビで見たんですよ。」
「あ、ありがとうございます。」


田辺はにっこり笑う。その遠坂の努力が、ただ新品のストッキングをもらうよりもはるかに
嬉しかったのだ。遠坂と田辺は手を繋ぎ、家路に着く。そして、遠坂がぽつりと呟いた。


「ああ、王子はつばめと出会えたから…幸せになることが出来たんですね。」
「は?どうしたんですか?」
「いいえ、独り言…です。」


遠坂は再度、にっこりと笑ったのだった。




参照:アンデルセン「幸せな王子」


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*Thanks 6001HIT紫苑b 様