滴る血で、柄が濡れる。手が滑る。
だけど私は剣を手放せず。
ただ、アナタの返り血に酔う。
アナタは僅かに口の端を上げる。
その唇から流れるのは珊瑚よりも深い紅。
紅で艶めく唇で微かに笑って。
でも、確かに笑って。
アナタは何時も。
アナタは何度も。
同じ言葉を繰り返す。
『…タノ…シ…カッタ……ゼ。』
@.夢ノ逢瀬
「…ミ…コ…ミコ…神子っ!!」
「ううん……何事……。」
望美は薄ぼんやりとした世界から、急速にうつつの世界へ戻される。
目に入るのは見慣れぬ天井、そして心配な面持ちで見つめる、小さな白龍の顔。
しがみ付く白龍に、笑顔で大丈夫と声をかけて望美は床から起き上がった。
昨日までの徒の旅が祟ったのか、少し足腰が重い。急峻な山道を馬で往くには
馬がかわいそうで…思わず馬から下りて歩いてきた望美だったのだが、
熊野にいたる山道は今まで望美が歩いてきた道以上に険しく、龍神温泉まで
たどり着いたところで宿をとり、少し休むことになったのだった。
「神子、本当に大丈夫?」
「うん。少し疲れただけだよ。ヒノエ君の言うとおり、お馬さんには
悪いけど、もう少し乗せてもらえばよかったかも。」
「神子……そうじゃなくて…。」
白龍は改めて、心配そうに望美の顔を見つめ、何かを口にしようとした。
しかし、その言葉は望美のこちょこちょ攻撃で封じられる。
「神子?うあぁ…神子、やめ…うひゃぁ!」
「だから、大丈夫って言ったでしょう?白龍。ほら!!」
「神子やめ、やめて…あうう…ひゃぁ!!」
白龍は笑いながらくすぐったそうに身を悶える。まだ小さな子供の体を
とる白龍をくすぐり倒すことなど、望美にとっては容易いことだ。
懸命に逃げようとする、白龍の衣を引っ張り引き倒し、さらにくすぐりまくる。
白龍も体験したことが無い感覚に、驚き半分、くすぐったい半分で身悶えて、
床の上で暴れていた。確かに龍神をくすぐり倒す神子など、未だかつて
いなかったに違いない。
「望美!白龍!!どうしたの!!……何をやっているの?」
隣の部屋の朔が激しい物音に驚き、望美の部屋に入ってきた。しかし、
目の前に広がるのは散らかった夜具と、床の上で取っ組み合いをする二人。
「朔?ああ、朔も手伝ってよ!ほら、白龍の足の裏、くすぐって!!」
「朔、だめ、そこだめ。うひゃぁあ!!」
「はぁ…もう、凄い音がしたから何事かと思ったのに。もう、二人とも
そんな元気が余り余っているのなら、朝餉のお手伝いしてもらえない?」
手に腰をあて、膨れっ面をする朔の顔を見た二人は、顔を見合わせ大きな声で
「はぁい!」と返事を返したのだった。
芋粥と、野草のおひたしという朝餉を済ませた後、望美は朔と温泉に行くこと
にした。宿主の好意でもう一泊龍神温泉に逗留することになったのだ。
龍神温泉はその名の通り、龍によって齎された霊験あらたかな温泉なのだ
という。白龍に言わせると、龍は温泉を掘ったりしないそうだが、
わざわざ龍の名を掲げるだけあって打ち身に切り傷、疲労回復など
万病に効く温泉らしい。
「お肌もつるつるになるそうよ。」
「うわぁ、楽しみだね!!」
湯殿の脇にある東屋で着替えをする。戦の為の具足は宿に置いてきたので
桃色の着物をするりと脱ぐと、あっというまに望美は一糸纏わぬ姿になった。
「……望美、全部脱ぐの?」
「うん。直接お風呂に入っても大丈夫そうだったから。」
いつもならこちらのスタイルに合わせて浴衣に着替えサウナのように蒸気を
浴びるのだが、先に湯殿の外にある源泉と思しき泉の温度を確認したら普通に
入れる温度だった。運良く人気もないし、譲を東屋の先に見張りに立たせて
いる。今なら望美の世界のように服を脱いで入浴しても差し支えはなさそう
だった。
「私の世界では裸ではいるんだよ!まぁちょっと手ぬぐいで隠したりは
するけど。」
「そ、そうなの…。」
「あ、後ね。裸の付き合いっていってね、一緒にお風呂入るのは
仲のいい証なんだよ。」
「そう…。」
望美が服を脱ぎ始めたときには、唖然としてしまった朔だったが、
望美が臆面も無く服を脱ぎ、笑いながら望美の世界の習慣を話してくれた
ことで踏ん切りがついた。朔もするりと衣を脱ぐ。
「朔…。」
「ど、どうしたの、望美。…何かおかしかった?」
「胸、大きい。いーなー……。」
「もう!!見ないでよ!!望美!!!!!」
東屋に姦しい声が響く。東屋から少し離れたところで見張りに立って
いた譲は思わず振り返る。しかし、危険を知らせるような声ではなかったし、
あまり東屋を見つめるのも悪い気がして、直ぐに東屋とは正反対の方へ
向きなおした。
「はぁ、先輩も…酷なことをしてくれるな。」
譲は少しずり落ちた眼鏡を指先ですっと持ち上げかけ直す。
女性二人が丸腰で温泉へ行こうというのだ。護衛は確かに必要だっただろう。
しかし、こんなところに見張りに立たせて…譲を信用しているか。
それとも、男としてさえ意識していないのか。込上げる複雑な思いで胸糞
悪い。しかし、その嫌悪の中にほんの一瞬、望美に選ばれたという優越感
が混ざったりするのだ。他の八葉ではなく、自分が。そんな複雑な思いに
身を任せながら、譲はただ只管に立ち続ける。
「ふぁ…気持ちいい…。」
「本当ね…ほら、肌がつるつるするわ。」
肩まで湯につかり、手足を伸ばす。久しぶりの開放感に、望美は思わず
声を漏らした。朔もやっと望美の世界のスタイルに慣れたのか、ゆったりと
湯に使っている。朔は湯煙の中、こっそりと望美の体を見つめた。
「…温泉水滑らかにして凝脂を洗うって、こういうことを言うのね。」
「うん?朔、何かいった?」
「うふふ、お肌が白くてすべすべで羨ましいわ。」
「そうかなーー?てやーー!!」
「きゃぁっ!!」
望美が不意を衝いて、朔にお湯をかける。朔も負けずにお湯をかけ返した。
何度かその応酬を交わしている間に、朔は望美の腕の付け根、もはや肩に
近いあたりに一筋の刀傷を見つけた。白い艶やかな肌に、桃色の糸筋。
絹糸のように細く、鋭利で鮮やかな色合い。
「どうしたの、そこ。」
「あ、これ?この間切りつけられて……。」
出し抜けに傷のことを聞かれて、思わず理由を答えてしまったが望美だった
が、声は次第に小さくなり、誰に傷をつけられたかという辺りで声が消える。
朔が憶えている限り、昨日今日の戦闘でこんな跡が残るような傷は負って
いなかったように思えた。第一こんな傷を負えば、周りが騒ぐ。常時先陣を
きって敵中に突っ込む望美だったが、その分八葉が手厚く守りを固める。
だから掠り傷程度の傷は絶えないものの、跡が残るような傷を負うことは
今まで無かった。それなのに、望美の腕には確かに、傷がある。
「ちょっと掠っただけだよ。思いのほか、跡が残ってただけ。」
「でも…」
朔の視線は、未だ望美の腕に向けられていた。しかし、この傷はこの時空で
受けたものではない。望美には上手く朔に説明することが出来なかった。
それに、誰に負わされたのか…説明したくも無かった。弥が上にも、
あの記憶が…今朝の夢が思い出される。
「大丈夫大丈夫!!動かしても全然痛くないもん。ほら!!」
「きゃぁ!もう、望美!!」
望美の攻撃により、また、お湯かけの応酬が始る。しかし、それは直ぐに
大きな岩の奥から聞えた低い呟きによって妨げられた。
「湯浴みをする天女というやつは…思いのほか、騒がしいんだな。」
「何者!!」
朔の誰何する鋭い声が響く。望美はそんな朔を無言で制止し、神経を
研ぎ澄ませる。相手の気配を窺う。しかし、そんなことをしなくても、
腕の傷は既に事実を理解していた。
傷が疼く。
もはや、ただの跡になったはずの傷が。
疼く。
疼く。
『こんな時ぐらい…』
熱い。
傷が。
『俺だけを…』
しばしの沈黙の後、ザバっと大きな水音がしたかと思うと、男の気配が
遠ざかる。完全に男の気配が無くなったところで、望美も朔も緊張の糸を
緩めた。
「もう…生きた心地がしなかったわ……くらくらする。」
「うーーん、本当。お湯つかりすぎちゃったね。」
「はぁ、もう…あなたって子は…。」
「お説教はあとあと。とりあえず今のうちに上がっちゃおうよ!」
「そうね……」
急いで湯殿から東屋へ戻った二人は、着替えを済ませ、東屋を後にする。
帰り道中、譲に混浴になってしまったことを可笑しく話して、朔と譲の二方向
から説教されてたりしながら、ぶらぶらと宿に戻る。熊野の新緑が、
強い日差しが、目に眩しい。生きとし生けるもの全てが眩く強く光を放って
いる。そんな眩しさに目を細め、望美は自分の傷を思い出す。
それは、これから先の時空でつけられた傷。
毎晩、夢の中で繰り返される逢瀬の結末。
ああ。
そういえば私は、何時から。
将臣君の夢を見なくなったんだろう。
望美は、もはや熱を感じなくなった傷を衣越しに撫でながら、
小さな事実に溜息を落としたのだった。
次項
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