何時からこの渇きに苛まれていたのか。

憶えている訳何ぞ無い。

ただ、今も渇いていて。

ただ、今も苛まれていて。

ただ、もう直ぐ満たされるのではなかろうかという、

極めて朧な期待が、何故か胸を掠めるだけだ。




A.夕凪




「つーーか、あのバカ何処いったんだよ…」


深い笹の茂みを苦々しげに薙ぎ払って、傾きかけた日差しに背を向けながら
将臣は獣道を進む。知盛との待ち合わせの刻限から随分と時が経っていた。
待ち合わせ場所までの残りの距離は大した距離ではなかったのだが、
海沿いの山道にしては随分と道が悪く、時間ばかりかかってしまっていた。
知盛はか弱い女子供では無いので、放っておいてもさほどの焦りは無いのだが、
今平家の人間を取り巻く環境を考えれば、一人にしておくのは些か気がとがめた。大体、
経正が無理に知盛を供につけたのも、一人では将臣の身が危うくなることを
憂いての判断だったのだから。


「にしてもなぁ…。」


つい、将臣の口ら愚痴がこぼれる。

確かに身を守る戦闘力として考えれば、知盛は最高の供といえるだろう。
襲い来る怨霊や落ち武者、追剥の類を、知盛は、まるで毛糸玉を与えた子猫の
ように無邪気に、そして軽々しく斬り捨てた。しかし、よほど手ごたえが
なかったのか、その様な戦いには早々に飽き、勝手に一人で出かける始末だ。
正直護衛としては全く役に立っていない。


「結局俺が面倒を見る羽目ってヤツだな。まぁどうせならもっとカワイイ子
 とかの面倒みたいよな。」
「では、どんな女ならよろしいのかな、兄上?」
「んあーー巨乳?」


笹の茂みの先から聞えた鷹揚な問いかけに、将臣も泰然と答えた。


「ほう…それは見目麗しい女に使う言葉ということでよいのかな?」
「ま、そーゆーことにしとけ。」


カサリと小さな音を立てて、茂みから知盛が出てきた。こんな間近の距離に
なるまで、将臣は知盛の気配に気が付かなかった。コイツが敵に回ると
厄介だな…そんな思考が一瞬将臣の脳裏に掠めた。しかし、それはほんの
一瞬のことで、将臣はそんな思考より重大な、知盛の異常に気が付いた。


「知盛…お前…。」
「…ん?」
「なんか、さっぱりしてねぇ?頭、濡れてるし。」
「そうか?」
「それに、ちょっと楽しそうじゃん。」


将臣の問いかけに、知盛は何も答えず、小さく笑った。そうして、ゆっくりと
瞬きをして…もう一度笑った。


「めちゃくちゃ楽しそうじゃねーかよ。おい。」
「…分かる、か?」


将臣は訝しげに知盛を見つめる。風呂にでも入ってきたのか、やけにさっぱり
とした出で立ちの上に、顔がニヤついている。しかし、髪の毛はキチンと
拭いてこなかったのか、びしょ濡れのままだ。


「そう言えば…この先は龍神温泉、か?」
「ご名答。湯浴みをする天女様にお会いしてな…なかなか楽しかった。」
「……混浴かよ!!!」


将臣はがっくりと項垂れる。人が熊野までの足がかりの宿を探したり、
困難ながらも経正と連絡を取ったりしている間、なんと知盛は温泉に浸かって
いたのだ。しかも混浴ときたもんだ。人の苦労なんざ知ったこっちゃねぇ。
大きな溜息が漏れそうになるのを、無理矢理飲み込んで将臣は知盛を睨め
付けた。しかし、知盛は全く気にする様子はない。挙句に、濡れた髪の毛が
気になったのか、まるで毛が濡れた犬が身震いするかの様に頭を振った。


「って!冷てーじゃん。手ぬぐいとかで拭けよ!」
「ああ。生憎手持ちは濡れてしまってな。捨てた。」
「捨てるな!乾かせよ!!あーもーしょーがねーな。」


将臣は再度溜息が漏れそうになるのを飲み込んで、懐から手ぬぐいを取り出し
た。知盛を座らせ、髪の毛を拭いてやる。弟がいたので、このような面倒を
みることは全く苦でなかった。実際、都落ちの際には安徳帝の身の世話を
する女房の数が足りず、いろいろと世話を焼いたものだった。しかし、
大の大人である知盛の髪を拭いてやるのは、流石に何か違和感がある。
ところが、当の本人は全く気にする様子もなく、大人しく将臣に髪を拭かれて
いた。

少しずつ水分を吸って重くなる手ぬぐいで、ごしごしと髪の毛を拭いてやり
ながら、将臣は知盛の気配を窺う。顔にかかった手ぬぐいの所為で表情は
全く見えない。気配に抑揚が無い。戦場では好戦的な知盛であったが、
将臣に反感を抱き、暇があれば直ぐに熱り立つ惟盛や、常時武士の心構えで
緊張感を醸し出す忠度とは違い、普段はこのように鷹揚に構えていること
が多かった。しかし、その態度は悠然と落ち着いているという言葉では
表しきれない何かを抱えていた。


将臣は不意に思い当たる。


凪。
そうだ、凪だ。


只、風が無いから静かに見えるだけ。
只、風が無いから水底の地獄が見えないだけ。


知盛の気配が動く。今まで無風だったのに、陸風が吹き始めた。
夕凪の時が終わったのだ。風に煽られて、手ぬぐいが捲れ上げる。


知盛は……笑っている。


「いい…女だった。」


知盛が呟く。


「巨乳?」


将臣は混ぜ返す。


「さて、姿は見ていないからな。」
「…じゃぁ、なんでいい女なんて分かるんだよ。」
「気配だ。その場の全てを凍らせるような、刃のような気配。」
「そりゃーお前が風呂覗いたからだろ。まぁ、殺られなくてよかったな。」
「ふっ……。お前には分からんだろうな。」
「分かるかよ。ほら、終了!」


将臣はそう吐き捨てると、手ぬぐいを外した。十分に乾いた知盛の髪が風に舞う。


風に舞う銀糸の中。
淡紫の瞳は、まだはっきりと姿を掴む事の出来ぬ女を想って。
狂喜の色を隠すことが出来なかった。




次項

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