辛いのならば、考えなければいい。

こだわらなければ、いくらだって楽にやれる。

だが、考えないよう努力している自分に。

気づいてしまっている私は、もう手遅れなのだろうか。

最果ての土地よりも遥かに遠く、終わりのない時空の狭間で。

私の心は、アナタの獄に囚われたままだ。



B.彼岸ト此岸(上)



熊野川の氾濫の所為で、龍神温泉から海沿いに熊野路を進めること数日。
やっと勝浦に到着し、ヒノエのなじみと言う宿でわらじを脱ぐことが出来た
龍神の神子の一行だったのだが、先を急ぐ九郎や情報収集に余念のない弁慶は、
宿が決まると直ぐに出かけて行ってしまい、宿に残っているのは望美と朔を
除いてはヒノエと白龍だけになっていた。


「うーん……。」
「あれ、どうしたの?朔?」


荷物を解きながら、朔が深い溜息をついた。望美は朔の手元を覗き込む。
朔は一つずつ丁寧に荷解きをしながら、質の悪い反古紙になにやら裏書
をしていた。


「いろいろ、足りないものが多いわね。これは買出しにいかないと
 だめだわ…」
「ふーーん、そんなに?」


望美は反古紙に目を移したが、全く何が書いてあるか読めなかった。
望美は未だに平仮名のひとつも上手く読めないのだ。とりあえず、
店の暖簾やら生活に必要なものは憶えたのだが、それ以外はからっきしだ。
正直戦場にいる時間が長いし、いろいろと世話を焼いてくれる人がいる
のであまり困ることがないのだ。


「うーーん、相変わらず朔の字は綺麗だねぇ。つるつる文字が流れてる。」
「うふふ。望美の方も相変わらず文字が読めないのね。」
「神子は文字は読めないかもしれないけど、清浄だからいいんだよ!!」


望美が朔に叱られているとでも思ったのか、白龍が急に首を突っ込んできた。
望美はそんな白龍の頭をもさもさ撫でながら笑う。


「字ぐらい読めなくても大丈夫だよ〜!朔、買ってくるもの教えてくれたら
 私も買出し手伝うよ!!」
「あら、本当?兄上も出かけてしまったし、お手伝い願えるかしら?」
「おや、姫君たちはお出かけかい?」


賑やかな声を聞きつけたのか、ヒノエがひょっこりと望美たちの部屋に
顔を出した。


「うん。買出しだよ。ヒノエ君も一緒に行く?」
「これからか?…ふぅ。神子姫のお誘いを断るなんて断腸の思いなんだけど、
 生憎ちょいと野暮用でね。」
「そっかぁ、残念。じゃぁ、朔、そろそろ行こうか。白龍はお留守番ね。
 いい子にしてたらあっまーーいおやつ買ってきてあげるよ。」
「うん。神子の望みなら。いい子にして待つよ。」
「っておい、お供も付けずに姫君たちは出かけるつもりかい?」
「ええ、他の八葉も出払っていて。まぁ、市までちょっと買い物に行く
 だけだから大丈夫だと思うんだけど。」
「………。」


女二人で買い物に行くと聞いたヒノエの顔が、急速に曇る。これからの用事
と望美たちの護衛とを天秤にかけていたのだが、若干野暮用のほうに傾いた
ようで、浮かない顔をしたまま小さく溜息を付いた。


「仕方ないな…本当に十分気をつけろよ?出来る限り二人で行動すること。
 あと、街の西はずれにある赤い橋は渡らないこと。」
「赤い橋?あったっけ、そんなの?」


口元に手を当てて考えこむ望美をヒノエは真剣な眼差しで見つめていた。
しかし、いくら考えこんでも場所が思い当たらないらしい望美の表情を
認め、ヒノエ小さな笑みを漏らす。


「まぁ、分からなければそれでもいいさ。百大夫の祠が近くにある赤い橋
 とだけ憶えておいてくれれば。その先はちょっと、お前達が行っていい
 場所じゃないんだよ。」
「え〜なんで?」
「どういうことかしら、ヒノエ殿。」
「ヒノエ…なんで?」


頭ごなしに行く事を禁止されると、余計に気になるのが人の性。
ヒノエは心配のあまりに口が過ぎたことに気が付いたが、時既に遅く。
ヒノエは望美と、朔と、ついでに白龍からの強い問いかけの視線を一斉に
浴びてしまっていた。


「あ…まぁ、いろいろあるんだよ。こういう土地柄な…。」
「うふふ。ヒノエを責めるのはその辺にしておいて
 もらえませんか、皆さん?」
「あら、何時お戻りになったのですか、弁慶殿?」


朔が弁慶の声に振り返ると、丁度朔の真後ろにある太い柱の影に、
くすりと小さな笑みを浮かべた弁慶が立っていたのであった。


「立ち聞きか?アンタ相変わらず性格悪いな。」
「キミが余りにも遅いから、迎えに来たんですよ。まぁ、ついでに
 助け舟を出してあげようかとも思ったのですが…出すぎた真似だったかな。」


憮然とした顔のままのヒノエを置いて、するりと弁慶は望美たちの中に入る。
そしてにっこりと笑いかけながら言葉を繋ぐ。


「まぁ、ここまできたら理由を知らないと、気がすまないでしょう?
 あの赤い反橋は…雲の浮橋。彼岸と此岸を分けるのですよ。
 橋を渡れば男達の極楽浄土という訳です。」
「な……。」


朔は顔を赤くして、息を呑む。理解が出来ない望美と白龍は、イマイチ
納得のいかない様子であったが、朔がもうそれ以上の説明は要りません
と断言してしまったので、大人しくするほか無かった。


「それでは、ヒノエ。そろそろ行きましょう。あまり時間がありませんから。」
「分かってるって。一寸待てよ。」


どうやら、本当に急ぎでヒノエを迎えに来たらしい弁慶は、その場の話
がなんとか収まると、急いで出かけようとした。しかし、ヒノエは
その隙を縫ってこそりと望美に近寄り、望美の手を取って耳元で囁く。


「俺の神子姫が浮かれ女なんぞと思われて声でもかけられたら…なんて
 思うだけで、俺は気が狂ってしまいそうになるんだ。後生だから、
 絶対に行ってくれるなよ?な、望美?」
「うん、分かったよ。ヒノエ君。だから、手は離してね?」
「ああ、約束な。」
「まったく。キミの手の早さにはいつも驚愕しますよ。しかし、本当に
 あの場所はあまり気の良い場所ではありませんから。
 清浄な姫君たちは足を運んではいけませんよ?」
「分かりました。弁慶さん。」


弁慶の念押しに、望美は笑顔で答えた。ヒノエは相変わらず望美の手を握って
いたのだが、弁慶の催促にしぶしぶながら腰を上げる。しかし、弁慶がヒノエ
に背を向けた瞬間、手を離す寸前に軽く望美の手の甲に口付けを残す。


「ヒノエ?」
「はいはい、わかってるって。今行くぜ。」


ヒノエは大仰に弁慶に返事を返すと、望美に向かって小さくウィンクを
して、弁慶と連れ立って出かけていったのだった。あまりの手際のよさに、
望美は思わず苦笑いをしならがら、ヒノエと弁慶を見送る。


「さーーて、そろそ私達も出かけようか。朔?」
「ええ、そうね。あまり遅くならないうちに。白龍、お留守番頼むわね。」
「うん。神子たち、いってらっしゃい!!」



宿を出て大通りを歩くこと暫し。やがて喧騒に包まれた場所に行き当たる。
宋船が港に戻った為か、勝浦の市は普段以上に人や物に満ち溢れている
ようだった。


「うわー。すっごい人だねぇ。」
「本当に…これじゃぁ、買い物も一苦労しそうね。」


あまりの人出に思わず呆然とする二人だったが、ここで突っ立っていても
時間の無駄と判断し、二手に分かれて買い物をすることに決めた。
望美は店の暖簾が分かるもの…油を買い、他のこまごまとしたものは
朔が買うことに決め、お互いに真っ直ぐ寄り道をせず宿に戻るという
約束を交わす。


「ヒノエ殿の約束は違えてしまうけど…。」
「白龍みたいな小さな子供じゃないんだし、宿は大通り沿いだし。
 大丈夫だって!!」
「ええ、そうね。それでは望美、よろしくね。」
「うん、また後で!!」


少し心配そうに振り返る朔を見送りながら、望美は目当ての店に向かった。
ろくすっぽ文字など読めない望美であったが、目当ての店だけは直ぐに
分かった。何故なら…


「鯨油の店、もう二回目だもんね。」


そう。望美がこの時に来るのは二回目なのだった。
風光明媚な土地と、戦いと戦いの狭間の少しばかり落ち着いていた、
僅かな夏の日々。望美はその先の時空で失ったものを求めて、時空を
遡ってきたのだった。前のときに比べて、ほんの少し何かが違う。
そして、まったく同じものもある、そんな夏の熊野路に望美は帰って
きていた。


「油を買うのは二回目だから…俄雨も、降るかな。」


望美は行商のおばちゃんに油を注いでもらいながら、真っ青に晴れ上がる
夏の空を見上げた。

思ったよりも早く買い物が済んだので、望美はぶらぶらと市を歩く。
寄り道をしない約束ではあったが、どうしても宿の方向へ足が向かなかった
のだ。未だ雨は降りそうではない。


「結局、私は…。」


また、同じ結果になると分かっていて望んでいるのだろうか。望美は再度
晴天の空を見上げながら考える。俄雨が降れば。雨宿りをすれば。
あの場所に行けば…


「知盛に、会える。」


でも、その先にあるのは毎晩夢に見る逢瀬の結果と同じであることは、
もうすでに理解していた。ああなるのがイヤだから、白龍の逆鱗を使ってまで
して時を遡ってきたのだ。望美は胸元にある白龍の逆鱗を衣の上から
握り締め、俯いた。


「なのに、私は…迷ってる。」


そんな彼女の少し丸まった背に、大粒の雨が落ち始めた。


ザアザアと激しい雨音が続く。俄雨と思われた雨はやがて本降りになり、
賑わいを見せていた市もすっかり人気がなくなっていた。望美は人通りが
無くなった道の真ん中をゆらゆらと歩く。行くべきか、行かざるべきか。
知っている結末と同じ道を歩んで、何になろう。

そんなこと、分かりきっているのに望美は未だ迷っているのだ。


初めて、剣を交えたあの日。

「同類、だな。」

知盛は、そう言って、笑った。

つい先程まで殺し合う為に剣を向け合っていたのに、
まるで稚児が新しいおもちゃでも得たかのように無邪気に手を差し出して。

私の髪に触れようとした。

私が何であるか、確かめる為に。

その手を白龍に阻害されて、貴方はやはり稚児のように不機嫌な顔をして
いたんだったね。

あの日の知盛の瞳を思い出す。
何度も迎えたあの日の知盛の瞳を思い出す。

何度見ても。
何時見ても。

何の思惑も無く。
ただ、その瞳は。

望美だけを見ていた。


楽しそうに、望美だけを見ていた。


「…あれ、ここ…どこだろう。」


逡巡しつつ通りをゆらゆらと歩いていた望美は、自分が見知らぬ場所に
いることに気が付いた。市の場所より海沿いの所為か、磯の香が強い。
見慣れぬ邸に、自分達が止まっているものとは随分違う趣がある宿。
海辺に繋がれている小船は今まで見たものとは違い、やけに絢爛豪華だった。


「ここは……。」


望美は居並ぶ店先に目をやる。この大雨の所為で何処も戸をしっかりと閉めて
いるようだったが、飲食店のような店が数件あいており、その店先の暖簾には
今まで見たことがない文字が書いてあった。そして暖簾の色合いも藍ではなく、
紅色。その紅色は、白拍子の緋袴を思い起こすような艶やかな色あいだった。

望美は大雨に濡れた髪を耳にかけ、暫し考える。そういえば、細い柳の木の
下に、祠があって…たしか、橋を渡った。ということは…


「彼岸と此岸の境を越えてしまったんだね。私は。」


改めて、望美はあたりを見回す。雨の飛沫に煙る家や宿は、春を鬻ぐ為に
作られたものなのだろう。弁慶の説明では今ひとつ良く分からなかったが、
実際に見ればはっきりと分かる。場所が醸し出す気配が全く違う。
今は雨音に管弦の音はかき消されていたが、邸に入れば、男達が遊興に
耽っているに違いない。


「情欲が渦巻く場所は、やっぱ調子悪くなるな…それに…寒い。」


望美は微かに震えている自分に気が付いた。先程からの大雨を避けもせず、
一身に浴びてきたのだ。いくら夏とはいえ、こうもずぶ濡れでは体温が下がる。
望美は大雨を降らす空を見上げる。確かに空は未だ大粒の雨だれを降らせていた
が、空に敷き詰められていた雲は既に薄くなり、夕方の弱い日差しが透けて
見えていた。


「もう直ぐ止むんだね…私は…会わなかった。」


あの場所に行かないことで、知盛に会わないという選択を選んだ。
選ばない、ということもまた選択であるということをリズヴァーンに
教えられたのはいつの日だったろうか。もう、そんなことさえ思い出せない
ほど、望美は何度も時空を超えていた。何度も、何度も。彼女が望まない
結末を迎える度に、いつも。


「…ヒノエ君と朔に怒られちゃうな。もう、帰ろう。」


望美は濡れた袖を軽く絞って、来た道を戻ろうと振り返った。


「………。」


振り返った先の気配が歪む。蠢く情念が固形化する………怨霊だ。
望美の視線の前方に彷徨い出た武者姿の怨霊は、まるで誰か人でも探
すかのように、あたりを見回し、数歩よろめいた。そして、望美を
その虚ろな瞳に捕らえた瞬間、おぞましい絶叫を上げた。

望美は真っ直ぐに、怨霊を見つめる。怨霊は生者を見かければ、必ず
襲い、それを食らおうとする。おぞましい声をあげ、虚ろな瞳で猛り狂った
獣のように襲いかかってくるのだ。黒龍の神子であれば、その嘆きの声を理解
してやることが出来ただろうが、生憎望美は白龍の神子。その声を、その言葉を
理解してやることは出来なかった。望美に出来ることは、ただ一つ。


怨霊が腕を振上げ、猛進してくる。


あと、三歩。


剣を持たぬ怨霊の腕は、酷く変形をしており、その爪は猛獣を髣髴とさせた。


あと、一歩。


目前の女の姿に、怨霊は一際高く歓喜の声を上げる。


あと、半歩。


柔らかい望美の胸を、怨霊が鋭い爪で貫こうとした瞬間。


無言で、望美の細剣が怨霊の首を刎ねた。


やや遅れて、空と斬られた雨粒が白い飛沫となってあたりに散った。
望美は一歩も動かなかった。動かずとも、軽く剣を振るだけで十分な事など、
振り返った瞬間に分かっていたからだ。

首を落とされた怨霊はその場に崩れ落ちる。怨霊は人の理から外れた者。
首を落とされても、体は不自然に動き、首は小さな声で悲鳴を上げていた。
しかし、怨霊は人の理を外れても尚、未だに人の理に縛られていた。

怨霊の首は小さな声で悲鳴を上げ続けている。自分の首が刎ねられたことを
理解しているのだ。だから死して尚、死への恐怖に悲鳴を上げ続けている。

望美は一度剣を振って飛沫を落とすと、鞘に剣を収める。そして、
解放の言の葉を紡ぐ。


「めぐれ、天の声。響け、地の声。かのものを、封ぜよ。」


望美の言葉と共に五行の澱みが解放され、固形化された情念は龍脈に帰った。
もはやその場所に怨霊の首が落ちていた跡形など、何一つ残ってはいない。

望美は怨霊を斬った自分の掌を見つめる。白龍の神子は怨霊の言葉を
理解する術を持たない。しかし、あの首を刎ねた怨霊が、最後に恐怖に震えて
いたことは十分すぎるほど理解出来た。もしかしたらあの怨霊は生前の
戦いでも首を刎ねられたのかもしれない。


「もしかしたら、生きていた時も、私が首を刎ねたのかもしれないね。」


怨霊の跡形などなく、ただのザアザアと雨つぶが叩きつけられる水溜りに
なった場所を眺めながら、望美は深い溜息を一つ付いた。

敦盛は浄化は解放なのだ、怨霊にとっては唯一の救いなのだと断言していた。
しかし、それはあくまでも最終的な結果であり、先程首を斬られた怨霊は
浄化されるその瞬間まで、恐怖に震えながら悲鳴を上げていた。もう一度
死ぬのが怖いのだ。



私は人を、二度殺す。

それが、私が大切な人を守る為に選んだ選択なのだから。

悔いはない。

悔いはない、けれど。

だけど、どうして。

私はこんなにも、人を殺すのが上手くなってしまったのだろう。



望美は震える両手をきつく握り締る。まだ止まない雨は、望美の肌から
体温と真っ当な思考を奪っていった。


「ここにいても…しかたない…。もう、かえ…ろう。」


望美はもう一度、自分に言い聞かせるようにその決心を呟くと、
元来た道を戻り始めたのだった。




次項

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