蹴鞠、囲碁、歌合せ。

双六、舞楽、薫物合せ。

淡い彩り、緩やかな毒。


只、我欲するは。

鮮やかな世界、一瞬の正気。



C.彼岸ト此岸(下)



「雨、か…」


しなだれる白拍子の、黒く美しい髪を弄びながら、知盛は微かに開けてある
窓の外の雨垂れの音を聞いていた。弄ぶ髪から、仄かに菊花の香りが立ち上がる。
歳の頃は17,18だろうか。今が盛りとばかりの肌理細やかな肌、艶やかな髪。
利発な言葉遊びが出来る、いわゆる上玉の女というやつだ。確かに、先程までの
熱い逢瀬はなかなか楽しめた。だが、所詮は「なかなか」程度。結局勝浦
くんだりまできて、宮中でのゆるゆるとした怠惰な世界と代わりばえがしない。
只、あの一瞬…そう、龍神温泉で感じた、女の殺気を除いては。


「…できませぬ。ねぇ、知盛様?」
「ああ…。」


知盛は、思考を抱きかかえていた白拍子に戻す。女はこの大雨の所為で舟遊び
が出来ないことを愚痴っていたのだった。知盛は、髪を弄んでいた指先を、
無造作に単の合わせの中に差し入れ、今度は女の肉を弄んだ。


「出来ぬ事を言っては、埒も無い。そうだろう…?」
「あ…知盛、様…。着たばかりの衣が、崩れてしまいますわ…」
「また、着ればいい。」


その言葉を待っていたかのように、女は小さく吐息を漏らすと既に熱を
帯び始めた体を知盛に晒す。知盛は、先程の逢瀬の名残で、緩やかに締めた
指貫と、女から奪った単を一枚、素肌に軽く身に着けているだけに過ぎない。
知盛は、抱きしめた女の体がどんどん熱を帯びてくるのを肌で感じ取りながら、
自分の体は逆に冷めていく感覚に気が付いていた。男の本能が赴くまま、
知盛は女の肉を弄ぶ。だが、弄ぶ度に、女が歓喜の声を漏らす度に、体はどん
どん冷めていく。だから、知盛は苦笑に顔を歪めながら、只一つ…彼の体を
熱くすることだけを考える。


「あの…女…。」


湯気の女。あの殺気…あの女は…どんな目をしているのだろう。一瞬に世界が
凍るほど。気配だけで身を裂くような…そんな女と剣を交わらせたら、どんな
世界が見えるのだろうか。女の殺気を思い出すだけで、肌が粟立つのが分かる。
無性に女に逢いたかった。只の一度でいい。あの女に…逢いたい。宮中の宴も、
姫君との文のやり取りさえも、いずれも興味をもてず、実の弟にさえ情が薄い
と非難された自分が、姿を見たことも無い女に逢いたくて…代わりにこんな
ところで女を抱いている。自分が否定した、緩やかな世界に…身を沈めて
いる。


「ハハハハ……!!」
「と、も…もり…様?」


急に大声を上げて笑い出した知盛を、組み敷かれた女は怪訝そうに見つめる。
しかし、知盛は全く気にする様子も無い。一頻り笑った後、知盛は女を捨て
置き、近くに置いてあった白瑠璃の杯に並々と酒を注ぎ、一気に飲み干した。


「帰る。」
「と、知盛様?何か私めに粗相でも御座いましたでしょうか?」
「いや…ほかに会いたい女がいるので、な。」


知盛の言葉に白拍子が絶句した瞬間、ばたばたと大きな足音と共に、半泣き
の童が一人、知盛の部屋に飛び込んできた。白拍子は闖入した童をこれ以上
ないと思しき鬼のような形相でにらみつけたが、すっかり怯えてしまった様子の
童には全く持って無力だった。飛び込んできた童は、知盛の足元にへたりこむ。
そして、少し間をおいて、この館の主である小柄な嫗が童の後を追って
部屋に入ってきたのだった。


「お楽しみのところを、誠に申し訳御座いません…さあ、お前。
 此方においで。何も怖がることなんてないのだから。」


嫗はまず、知盛に非礼を詫びると、直ぐに童を部屋から連れ出そうと、
その手を力いっぱい引っ張った。しかし、童は頑なに座り込み、その場
から離れようとしなかった。知盛は足元に座り込んだ童を、目を細めて
見つめる。童の瞳は、恐怖の色に満ちていた。稚気ではなく、真の恐怖の
色に。それは、彼岸と此岸の狭間を見たことがあるもののみ持ちえる、
鮮やかな色合いだった。久々に見た鮮やかな色合いに、気を良くした知盛は
事の次第を嫗に尋ねた。


「…何事だ?」
「ええ、急にこの子が…この子は、京の外れが出の傀儡子なのでございますが、
 村を怨霊にやられ、一人になったところを私めが拾ってやったのです。
 その所為か…やけに陰の気に敏感で御座いまして。どうやらその気を感じ
 たらしく、急に怯えて、こちらに迷い込んでしまったので御座います。」


知盛は、改めて童の瞳を見つめる。知盛の足元に座り込んで以来、先程
までの怯えた様子は落ち着いてきていたが、瞳の恐怖の色合いは更に濃く
なってきているようだった。子供は聡い。だからきっとこの館の中で一番安全
と思われる部屋に飛び込んだのだろう。力には、力で。人を殺める物には、
人を殺める者を。次第に恐怖の色合いが濃くなる童の瞳を見つめたまま、
一言、知盛は問う。


「近い、か?」


言葉なく、童は頷く。童の答えに、知盛は口の端を軽く上げた。そして、
紫水晶のような美しい瞳に、鮮やかな、強い光を湛える。


「ならば、斬ってやろう。」
「知盛様!!!」


急な話に、白拍子が思わず知盛の羽織った単の袖に縋りつく。しかし、知盛は
意に介することなく、まるで塵を払うかのように女を払いのけて、立てかけて
あった二本の太刀を手に取った。そして、童に怨霊のいる方向を指し示させる
と、走り出さんばかりの勢いで、館から出て行ったのだった。



ザアザアと、表は滝のような雨が降っていた。少しばかり天は明るさを
取り戻していたが、未だ雨は止む様子が無い。傘も差さずに出てきた知盛の
髪はあっという間に雨に濡れそぼった。白拍子から借りたままの単も雨に
濡れ、緋色の単は血の様な艶やかな色合いになっていった。童が指し示した
方向…館から一本道を隔てた大通りへ出るために角を曲がる。すると、童の
察した通りに、武者姿の怨霊が一匹、陰気を回りに撒き散らしながら、
女を襲っていた。どうやら、この大雨の中、外を出歩いていた酔狂な女が居た
らしい。恐怖に染まってしまったのか、足が動かないようだ。女は只、その場に
棒立ちになって、ぴくりとも動かない。知盛は、女を助ける義理人情など
持ち合わせていなかったが、かといって目の前で無抵抗な女が殺められるの
を楽しめる性質も持ち合わせていなかった。二本の太刀の柄を軽く握り締め
ると、瞬時に抜刀する。そして、抜き身のまま小走りに怨霊との距離を詰めた。


しかし、次の瞬間。

知盛の足が止まる。

心臓が、まるで早鐘のように高鳴る。

世界が、変る。

世界を、知る。


最初、女はが怨霊を抱きしめたかのように見えた。ゆっくりと両の手を
開き、その胸元に怨霊を呼び込んだのだ。しかし、そうではないことは瞬時に
分かる。軽く払われた腕が、その先にある剣が、怨霊の首を一薙ぎで刎ねた。
その姿は、まるで白拍子が舞を一指し舞ったが如く。ただ、その気配は、
絶望的なまでに、白い。


「あの、女…か。」


女が瞬時に見せた殺気は、鮮やかな世界を通り越して、遥かに白く眩かった。
知盛の脳裏に、龍神温泉で感じた、あの殺気が蘇る。龍神温泉で感じた殺気は、
まるで氷の刃のようだと思ったのだが…知盛はそれが、まだ女の本気では
なかったことを身をもって知った。怨霊に向けられた殺気はそれを遥かに凌いで
いた。女が孕む殺気は水気ではなく、火気…いや火そのものだった。
光が強すぎるから、色なんて見えない。焼け付くような熱さなんて通り越して、
ただ、痛みだけが知盛の肌を切り刻む。傍に居るだけで、こんなにも感じる
のだ。その瞳を真正面に見つめたら…どんな世界が見えるのだろう。
知盛は、女の気配に酔いしれ、ただ呆然と女の姿を見つめる。

女は落ちた怨霊の首を暫し見つめた後、何やら言葉を呟いていた。そして、
次の瞬間、殺気の代わりに未だかつて感じたことが無いような、暖かな光が
その場を包んだ。やがて暖かな光が消えると、怨霊の姿は跡形もなく、
まるで何事も無かったかのような静寂に包まれた。そして、女はその場を
立ち去るべく、知盛に背を向け、色街の出口の方へ歩み始めた。


「待て、女。」


思わず、知盛の口から声が漏れる。さほど大きな声ではなかったのだが、
激しい雨音の中、女の耳に届いたようだ。女が、ゆっくりと振り返る。
そして、まるで死に人でも見たかのように驚いて…小さく首を振り
一言呟いた。


「知盛、何で…」
「俺を、知るか?」


しかし、女は知盛の問いには答えず、俯いた。その様子は泣いているように
も思えたが、土砂降りの雨の中、本当に泣いているのかは良く分からなかった。
やがて顔を上げた女には、その様な気配は残っておらず、ただ、先程までの
戦いの余熱がその大きな瞳に燻っているように見えた。改めて知盛は女を
頭の頂から足の先まで見回した。すこし華奢な体つきをして、姫武将のような
変った身なりをした女は、雨で額に張り付いた桃色の髪を直そうともせず、
真っ直ぐに知盛を見つめていた。しかし、その両手はきつく握り締められて
おり、女が緊張していることが見て取れた。


「再度、問う。何故にお前は俺を知る?」
「……貴方が、平家の将だから。」
「ほう…それでは、お前は?」
「私は…。」


女はそこで言葉を止め、一呼吸置いた。そして、何かを諦めたように…悲しそう
に少し笑って、言葉を続けた。


「私は、源氏の神子。春日望美。」
「源氏の神子か…クッ…愚かなのか、豪胆なのか。このような場所で一人
 何をする?怨霊退治か?」
「…それは、貴方には関係ない。」
「まぁ、いい。もののついでだ、俺の相手をしてくれないか?
 怨霊を殺める慈悲深さがあるんだ、その程度の事など容易いだろう?」


何時になく雄弁に、知盛は望美にまくし立てた。龍神温泉であの殺気を
感じて以来、どれぐらいの時間がたったのだろうか。あの時から一時も忘れた
ことが無い、湯気の先の女が…今、雨に煙立つこの場所に立っているのだ。
この機会、逃さずにいられる訳が無い。しかし、望美は只真っ直ぐに知盛の瞳
を見つめているだけだった。そして、暫しの沈黙の後、嘆息交じりに望美が
呟いた。


「知盛にしては、事を急いているわね。」
「俺にしては?まるで、俺の女のような口ぶりだな…」
「ああ…そうだね。そうね、もう仕方が無いのかもしれないね。
 こんな形で…こんなところで。知盛に逢うなんて思ってもみなかったけど。」


望美は、既に抜き身になっている知盛の二振りの刀を見つめる。雨に打たれて
白く輝く刀身。波紋が美しく、彼の刀に対する愛着が分かる。そして、鍔には
揚羽蝶の細工。何度も見てきたから、その細部まで瞳を閉じてもはっきりと
思い浮かべることが出来る。何度も戦って、何度も同じ結果をみた。それでも
知盛は、こうやって…違う場所で出会っても、同じ事を求めるのだ。
望美は覚悟を決め、無言で剣を抜く。


「クッ…いい、答えだ。」


知盛は口の端を上げると、次の瞬間、望美の胴を払う。しかし、望美も
同じ瞬間、後ろに退き間合いをとった。互いの気配を伺い、剣を太刀を…
お互いの体に打ち込み合う。キィンと硬い金属音が、雨に濡れる色街に戦いの
調べを響かせた。激しい雨垂れと、金属音の和音は、否が応でも知盛の高揚感を
引き上げる。しかし、まだもの足りなかった。望美の見せる殺気が。先程怨霊に
見せた殺気に比べたらまだ、足りない。

望美が大きく踏み込み、必殺の一撃を放つ。しかし、知盛は難なく、両の太刀
で受け止めた。ごり押ししようとする望美の剣を、知盛は力で押し返す。
いくら望美の太刀筋が美しく、強いものであっても、根本的な筋力の差は
いかんともしがたい。力比べになったら、事の優劣は明らかであった。


「遊びはそろそろ、終わりにしようぜ?本気のお前を…見せてみろよ。」


知盛は望美の剣を跳ね返すべく、腕にさらに力を込めた。しかし、跳ね返そう
とした瞬間、太刀に架かっていた重みが空気のように軽くなった。
驚いて、知盛は望美の顔を見つめる。しかし、先程まで殺気と絶望的な白さを
湛えていたはずの瞳は、瞼に覆われていた。そして、ゆっくりと柄から望美の
手が離れ、膝から地面に崩れ落ちていった。そのまま、知盛が刀を振れば、
首を刎ねることもできただろう。しかし、知盛は思わず刀を手放し、望美を
抱きかかえていた。


「オイ!起きろ…クソッ…。」


知盛は抱きかかえた望美の頬を軽く叩いたが、反応が無い。ただ浅い呼吸を
繰り返し、その体は氷のように冷たかった。


「まだ、俺は…満足なんて、していない……。」
「知盛様。これ以上雨に濡れましては、お体に触ります。…そちらの
 お嬢様は?」


知盛が声に振り返ると、例の館の嫗が、下働きの女に大傘を差させてこちらの
様子をうかがっているところだった。童の様子で怨霊の気配が消えたことを
察して出てきたのだろう。


「ふん…俺が死んでいたら、身包み剥いでという魂胆だったのだろうが、
 生憎と生きているぞ。」
「まさか…滅相も御座いません。」


慌てふためく嫗の様子を尻目に、再度知盛は望美の頬に触れる。しかし、
相変わらず反応が無い。


「…床の準備と、薬師を呼べ。」
「かしこまりまして。」


知盛の有無を言わさぬ強い言葉に、嫗が急いで館へ戻る。知盛はすっかり冷たく
なってしまった望美の体を抱き上げると、まるで荷物のように肩に担ぎ上げ、
館へ戻っていったのだった。




次項

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