ⅴ.幕間
「それにしても、酷い雨だな。」
九郎は宿の土間に入ると、被っていた笠を脱ぎ、大きく振った。
途端に大量の水滴が振り落とされて、土間に滴模様を描き出す。
出先で笠と蓑を借りてきたものの、半刻ほど馬を走らせて宿に帰ってきたら
すっかりびしょ濡れになってしまった。これは部屋に入る前に、風呂に直行
した方がいいかと九郎が思案したその時、急に入り口の辺りから諍いのような
大きな声が聞えた。
「だから、いったこっちゃねぇ。」
「ヒノエ、お前が付いていっていれば！」
「ごめんなさい、私が悪いの。」
どうやら、譲、ヒノエ、朔が言い争いをしているらしい。九郎の帰還に
気が付いた白龍がおろおろしながら、九郎に走り寄った。
「どうしたんだ、白龍？」
「うん…神子が…八葉同士諍い、よくない。」
「…要領を得んな。仕方がない。
騒がしいぞ！！！お前ら！！！！！」
九郎は一つ大きく息を吸うと、宿中に響き渡るような大きな声を出した。
ただ、大声というだけでなく、九郎が意図的に発する声には周りを圧倒する
独特の雰囲気があった。それまで、九郎の帰還に全く気が付いていなかった
三人も思わず言葉が止まる。
「一体、諍いの種はなんだ？」
「実は…。」
九郎の問いに、朔が柳眉を顰めて事の次第を話し出した。掻い摘むと、
日中望美と一緒に買い物の為に市へ出かけたのだが、未だに帰ってこない
ということらしい。その際、望美を一人にするなとヒノエに言われてた
のに、その忠告を破って一人にしてしまったため、言い争いになったのだ。
その上、譲がこの大雨の中、望美を探しにいくと言い出し、土間口に
来ても尚、言い争いを続けていたのだった。朔の話を聞いた九郎は、ふむ、
と頷いた。
「望美を市で一人にするなんて、下策中の下策だな。」
「な…。」
余りにもはっきりと断言されてしまった朔は、思わず息を呑んだ。
「それにヒノエも、そんな心配をするぐらいなら、付いて行って
やればよかったろうに。」
「…言われなくても、分かってる。」
「ほら、俺の言う通りじゃないですか。」
「といっても、一番悪いのは望美だろう。放っておけ。」
九郎はあっさりと、そしてさらにはっきりと断言した。思わず三人とも息を呑む。
「な、なんて事言うんですか、九郎さん！？もし、先輩に何かあったら！！」
「…譲、お前、京での例の栃餅、憶えてないのか？」
「え、あ…栃餅？ああ、あの栃餅事件ですか。」
「栃餅事件！？」
「ってゆーか、なにそれ。」
朔とヒノエは顔を見合わせる。その表情を見た九郎は、やれやれと呟きながら、
譲曰くの「栃餅事件」について、詳しく話をし始めた。
「あれは、京で東の市が立った日のことだった…」
その日、九郎は梶原の京邸で前日を過ごし、朝一番で六条堀川の邸に戻る
予定だった。丁度、東の市が立つ日で、暇をしていた望美が市に行ってみたい
と言い出したのだ。
「九郎さんは忙しいから、市の入り口まで馬に乗せててくれると…
嬉しいんですけど。」
「…それぐらい、ならな。」
確かに、東の市までは徒歩で行くには少々距離がある。しかも、丁度その日は
他の八葉は皆出払っていて、護衛を頼める人間がいなかった。いくら剣の
腕が立つとはいえ、女子供を一人で出歩かせるのは忍びないと思った九郎は、
望美を馬に乗せ、市へ出向いたのだった。そして、それが運の尽きだった。
東の市は、京で一番の人出を誇る、栄えた市だった。平家が都落ちの際には
治安が荒れ、活気がなくなってしまったのだったが、今日の市を見る限り
随分と景気はよくなっているようだった。その所為か、小間物やら甘味やら
日常生活には不必要ながらも、生活をいろどるさまざまな品物を売る出店が
軒を連ねていた。
望美は、その一つ一つの店に立ち止まっては、品物をみつめ、「かわいー！」
と感歎の声を漏らしていた。市の入り口まで、という約束だったはずの
九郎も、いちいち望美が「これ、超かわいくないですか？」なんて聞いて
くるものだから、仕方なく、買い物に付き合っていた。やがて小間物屋が連なる
辺りを過ぎ、食べ物屋が多い場所になった。そして、望美の足が一軒の
店の前で止まった。
「すごい、甘い匂いがする…おいしそうですね、九郎さん？」
「…食べたいのか？間食は勧めんぞ。」
「うーーん、食べたいですけど、お金持ってないし。」
「は？金を持っていない？ということは、何か？お前、買う気は
ないのに…あんなに小間物屋を回って、俺に意見を聞いていたのか？」
「はい。ウィンドウショッピングです。あ、九郎さんにウィンドウショッピング
って言っても分からないですよね、ウィンドウショッピングっていうのは…」
その段階で、既に九郎は完全に切れていた。本当は仕事が山積していて、
早く六条堀川の邸に戻りたかったのだが、望美が九郎に意見を求めてくる
から、無碍に出来ず買い物に付き合っていたのだ。それだというのに、
望美は買う気が全くなかったのだという。というか、ういんどうしょっぴんぐ
ってなんなのだ。
「勝手にしろ！」
確か、九郎はそう望美に言い放って、望美を市に置いてきたのだった。
あまりに頭にきて、その時のことを詳しくは憶えていない。しかし、
六条堀川の邸で仕事をしているうちに、望美を置き去りにしてきたことに
少しばかり後悔の念が湧いて来た。もともと、望美は九郎が忙しいことを
知っていたし、だから市の入り口まででいいと言っていたのだ。
「何も、怒るようなことではなかったか。」
自分の短慮に、思わず九郎は溜息を付いた。普段の仕事ならもう少し、
冷静に執り行えるものの、望美の事となっては上手く感情を制御する
ことが出来ない自分に気が付き、九郎はさらに大きな溜息を付いた。
「少し、出かける。」
側近に一声かけると、九郎は邸を抜け、市へ馬を走らせた。
朝、望美と分かれてから、既に三刻ほど時がたったであろうか。
野菜などを扱う店のうち、気が早いものは既に店じまいを始めている。
少し人出が落ちた市を、九郎は目的の店へ急いだ。例の栃餅の店である。
勝手に怒っておいて、謝るのも変な話だし、とりあえず欲しがっていた栃餅
でも土産に買って帰ろうという魂胆だった。だから、売り切れになる前に、
急いで買おうと思ったのだ。
九郎が栃餅屋の前に到着する。すると、朝にはなかったものすごい人だかり
ができていた。なんとか、人込みを掻き分け、売り子の側に行ってみると…
見知った顔が、一つ。
「の、望美！！！！」
「あ、九郎さん、いらっしゃいませ。お幾つご入用ですかぁ？」
「なななな、なんでお前がこんなところで！！！！」
「えへへへ…まあ、いろいろ、です。」
「意味が分からんぞ！！！！！」
九郎の絶叫が辺りに響き渡る。只でさえ地声が大きい上に、威圧的な物言い。
それまで、店の前には押すな押すなの人込みがあったのだが、九郎の所為で
客がだんだん遠巻きになっていた。確かに、こんなところで武士に絡まれて
斬られたとあってはたまったものではない。
「んもー、九郎さん。買う気がないなら、商売の邪魔しないでくれます？」
客足が遠のきそうになっていることに気が付いた望美が、ふくれっつらで
九郎をにらみつける。周りの気配に気が付いた九郎も、一旦大人しく望美の
言葉に従い、店の脇に移動した。そして、再度小声で望美に詰問する。
「だから、何でお前がこんなところで餅を売っているのだ！？」
「お金持ってなかったから、労働力を提供してるんです。」
「何？だったら今すぐ買ってやるから、早く邸へ戻れ！！」
「えーと、あの、その。それはダメなんです…」
九郎がまた大きな声で「なんでだ！」と問いただそうとした瞬間、栃餅屋の
子供と思しき、年のころは五つぐらいの少女が九郎の直垂の袖を引っ張った。
「あのね、お姉ちゃん、もうお餅四つも食べたんだよ！だからね、
今日はね、私とお母ちゃんと一緒にね、お餅売り切れるまで、お手伝い
してくれる約束なんだよ。」
「四つもか！！！！」
「もーーーー、菊ちゃん、食べた個数なんていわなくてもいいのに～！！！
…まぁ、そういう訳で既に報酬を頂いているので、売り切るまで
帰りません。」
望美はそう言い切ると、菊ちゃんと呼んだ少女と一緒に、店の手伝いに
戻っていった。売り切るまで絶対に帰らないという望美の意志は固く、
結局九郎は、店にある栃餅を全部買い上げて、望美と一緒に京邸に戻った
のだった。
「あーそういえば、なんか望美がやけに栃餅勧めてきたことがあったな。」
「ええ、そうね…八葉の皆に配ってもあまって、馬丁にまで配ったんじゃ
なかったかしら。」
「それは全て、俺があいつの所為で買わされた栃餅だ。
しかも、何が凄いってあいつ…譲が作った夕餉の後に、更に栃餅を
三つも食ってたんだ！！一日二食食って、餅を更に七つだぞ？
ありえるか？！！」
九郎は「栃餅事件」を昨日のことのように思い出し、そして望美の尋常ではない
食い気に、怖れ、戦慄いていた。
「あー確かに、先輩の甘いものに対する情熱は尋常ではないものがありますね。
前に白龍にあげたすももも取り上げてましたし。」
「譲、違うよ。神子がね、ものすごーーく欲しそうな顔をしていたから、
神子に私が上げたんだよ。神子の幸いは私の幸いだから。」
「小さな子供の水菓子を欲しがるなんて…望美、よっぽど食べたかったのね。」
「ふーーん、道理で玉やら金銀に興味を示さない訳だ。ちょっと烏を使いに
やって、芋餡の饅頭でも買ってくるか…」
「だから、だ！！！」
九郎は、話を収拾すべく、一段と大きな声を出した。
「望美を市で一人にするなんて、下策だというのだ。どうせどこかの
食い物屋で引っかかったんだろう。しかも、この大雨だ。きっと
甘いものでも食いながら雨宿りでもしているに違いない。心配するだけ、
無駄だ。」
「でも、九郎殿…私、望美とは随分前に別れましたから…」
「栃餅のときは、三刻だ。まだそれほどは経っていないだろう？
しかもこの大雨のなか、探しに出てみろ。絶対風邪を引くぞ。
具合が悪くなったら、弁慶に真綿で首を絞めるような嫌味を
言われるのは必定だ。」
「あーアイツなら言いかねねーな。」
ヒノエはげんなりした顔で呟く。未だに心配そうな面持ちの朔と譲を
諭すように、九郎は言った。
「雨が上がったら探しに行けばいいさ。だから、とりあえず皆は部屋に戻れ。
俺はともかくさっさと風呂に入りたいんだ。」
九郎の言葉には一理ある。そう思った三人はしぶしぶ、各々の部屋へ戻って
行った。九郎は、三人が部屋に戻った頃を見計らって、未だ身につけたまま
だった蓑を脱ぎ、大きく一度振った。今度は笠を振ったときよりも更に多くの
滴模様が土間に広がる。そして、改めて蓑を身に付け、笠を被る。
「九郎、行くのか。」
「先生…。」
九郎が土間の引き戸に手をかけた瞬間、背後から急に声がかかった。
九郎は観念したように、ゆっくりと振り返った。そこには、リズヴァーン
が立っていた。
「皆には、探さずとも良いと、諭していたようだったが？」
「くっ………。」
九郎は思わず口ごもる。リズヴァーンは、その九郎の様子を目を細めて
見つめていた。些か猪突猛進の気配があるこの弟子が、このように口ごもる
のは極めて珍しい。そして、本人は気が付いていないようだったが、九郎は
極度の緊張状態にあると、太刀の柄を、その手が白くなるほど強く握り締める
癖があった。そして今、九郎は太刀の柄を強く握り締めている。
「私には、言えぬことか？ならば、聞くまい。見てはならぬことで
あったのならば、私は、お前を見なかった。それで良いか？」
「いえ…先生……先生、俺は…。」
九郎は覚悟を決めたのだろう。柄を握り締めていた手を離し、真っ直ぐ
リズヴァーンを見つめた。そして、今にも泣きそうな…消え入りそうな
声で呟いた。
「俺は、望美が…危うい瀬に立っているような気がしてならないのです。」
あの、「栃餅事件」にはあえて九郎が語らなかった部分があった。
実は、九郎が買い占めた栃餅の量が半端ではない量で、明らかに京邸へ
持って帰るには多すぎた。そこで、望美の発案で六条堀川の邸に仕える
人々に配ろうという話になったのだ。日ごろ政務に忙しく、それぐらいの
労いがあってもいいだろうと思った九郎も、それに同意した。だから、
直接京邸には戻らず、六条堀川の邸へ一旦寄ったのだが、それはその際に
起こったのだった。
最初は邸で仕事をしている武士などに、望美が栃餅を配っていたのだが、
腰に刀を下げる望美を見て、一手手合わせ願いたいと言い出す者が現れた。
普段だったら相手にしなかったのだろうが、昼に栃餅を四つも食べていた
望美は、ちょっと腹ごなしに運動しようかな、なんて気になり手合わせが始った。
龍神の神子とは言え、女子供。最初は見縊っていた者が多かったのだが、
望美の太刀筋、放つ気配が明らかに普通出ないことを皆が理解するのに
そう多くの時はかからなかった。半刻もたたないうちに、手合わせを望んだ者
全てが地に手を付く事態に陥ったのだ。そして、その時、丁度九郎が手合わせを
していた中庭に面する濡れ縁を通りかかった。
「いやはや、さすが龍神の神子様。宇治川を九郎殿と戦ったという噂は
真であったか。」
「おお、これは…丁度良く九郎殿がいらっしゃった。是非、九郎殿と神子様
との手合わせを拝見させていただきたいのものだ。」
九郎はまるで手合わせが見世物の様に思われるのは心外だったが、自分の
配下の武士が全員望美に負けているのは、流石に面目がない。望美の方も
九郎と手合わせすることがまんざらではない様子だったので、一戦交える
ことになったのだった。
リズヴァーンの指導の下、何度が望美と手合わせしている九郎だったのだが、
本気を出せば、望美に負けるはずがないと思っていた。女子供と侮る訳では
なかったが、修行をしてきた年月が違う。筋力も違う。だから、いく筋か
刀を交わらせた後、早めにけりをつけるため、九郎は本気の太刀を放った。
そして、その瞬間。
望美の、気配が変った。九郎の必殺の一撃を難なく読みきりかわした。
そして、少し隙が出来た胴を躊躇うことなく払おうとした。
九郎は、どうすることも出来なかった。ただ、望美の一分の隙もなく洗練
された剣に胴を断たれるのだということだけを理解した。望美は何一つ
表情を変えず、まるで花でも手折るように剣を振るった。そして、望美の
剣が九郎の胴に触れようとした瞬間、何かに弾かれるように望美の剣が止まった。
「きゃっ！今の、私の勝ちですよね！！！やった！！
初めて九郎さんに勝っちゃった！！！まぐれでもうれしい～！」
「…望美。」
先程までの気配は、まるでなく。望美はまるで幼子の様に笑っていた。
初めて九郎に勝てて…嬉しいといって。周りの武士たちは一見好勝負に見えた
試合に感歎していた。九郎は太刀を鞘に収め…柄を強く握る。
「先生、俺はあの時…あの瞬間。あいつの事を怖いと思ってしまったんです。
まるで花でも手折るように…人を斬り殺してしまいそうだと…。
それは、俺が至らないから…俺の心が弱いから…でも…」
「皆まで言うな、九郎。」
リズヴァーンは微かに震える九郎の肩を、優しく叩く。そして、憂いの
深い瞳で九郎を見つめた。
「九郎、お前は優秀な将だ。太刀、統率、そして人望。お前を超える
将を片手の指ほど上げるのは不可能といっても過言ではないだろう。」
「先生…」
「だが、単純に…人を殺めることに限れば、神子は既に私達の遥か高みに
達している。」
「…先生さえ…届かない高みなのですか？」
「ああ…もとより筋が良かったのか、それとも強くありたいという神子の願い
が白龍の力を伴って強くしたのか。それは定かではない。しかし、もはや
私達に手が届く範囲ではないことは確かだ。」
「………。」
「だがな、九郎。神子は自身それを理解している。故に力量が一の者には、一の
力で。三の者には三の力で。神子は必ず加減している。しかし、たまに…
お前や私のように、ある程度腕が立って、神子が思うより強い力を放つこと
があれば…神子は瞬時、本気を出すこともある。」
「あいつの本気…」
「ああ、そうだ。しかし、本来その本気は我々に向けられるものではない。
現に、神子はお前の胴を断たなかった。そうだろう、九郎？」
「はい。」
「確かに、神子の強さは恐怖に値する。しかし、神子はそれを御することが
できる。私は、そう信じている。だから…」
「俺も…信じます。」
「うむ。」
リズヴァーンは九郎の返事に一つ頷き、すいっと瞬時に消えた。
土間口には九郎が一人残される。九郎はゆっくりと笠と蓑を脱ぎ、風呂場へ
向かった。しかし、ぎゅっと強く柄を握った手を、放すことは出来なかった。
次項
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