前の私。
今の私。
違う私。
同じ私。
私は私。
じゃぁ、なんで。
そんな目で。
私を見るの?
E.無間地獄
「もう、大丈夫だよ。九郎さん。」
手ごろな石の上に望美を座らせて、九郎が濡れた手ぬぐいで望美の顔を拭いて
やっている。九郎は力の加減を知らないので、硬い布がごしごしと顔を擦って
少しばかり痛い。
「しかしだな、その…返り血がついたままでは気持ちが悪いだろう。
生憎、着替えの一つも用意できない。せめてもう少し顔だけでも綺麗にして…」
「有難う。でも、本当に大丈夫。」
「…大丈夫なものか。」
消え入りそうな声で九郎が呟く。望美の顔を拭いていた手が止まり、手ぬぐいを
握る手に力が入る。そして、その無骨な手が白くなるまで手ぬぐいを握りしめた。
俯く九郎の肩は、心なしか震えているようにも見える。望美は拭いてもらって
綺麗になった顔の感触を確かめながら、九郎に問うた。
「…九郎さん?」
やや、間をおいて、九郎はやはり俯いたまま、苦渋に満ちた声で答えを返した。
「今更遅いが、やはりお前を戦場につれてくるべきではなかった。」
「私、足手まとい…ですか?」
「いや…お前は十分に腕も立つ。その辺の兵士に比べて武術の腕前に
関しては遜色もない。」
「なら…どうして?」
漸く九郎は顔を上げると、精悍な眉を憂い深げに寄せ、頭を振った。
そして自分の顔の感触を確かめていた望美の手をゆっくり取ると、無骨な手で
優しく望美の手を包み、大きな溜息つくかのように言ったのだった。
「お前、この手で…今日初めて人を斬ったのだろう?」
そう。
今日私は生まれて初めて。
人を、殺した。
私はただの女子高生。
でも気が付いたら異界の宇治川の辺に飛ばされていて。
そこで怨霊にエンカウント。
でもなんとか白龍と朔のお陰で怨霊を無事封印。
どうやら私には怨霊を封印する力があるらしい。
それがみんなの役に立つらしい。それはとてもうれしい。
それから九郎さんや弁慶さんにあって、京の町へ行った。
そこも怨霊がはびこっていて、悪さをするからすべからく封印。
もっとみんなの役に立ちたいから、先生に剣を習って強くなった。
そうして花びらさえ断てるようになって、九郎さんにも認めてもらえた。
それは、とてもとてもうれしい。もっともっとみんなの役に立てるから。
やがて戦が起こった。
三草山というところに攻めにいくそうだ。頑張って修行したから、
きっとみんなの役に立てるはず。
そう。
私は分かっていなかった。
戦に出るということを。
人を殺すということを。
「望美ぃ!走れっ!!!!」
九郎の声が耳を劈く。
リズヴァーンが開いた血路を死に物狂いで、走り抜ける。
白龍の神子、ひいては源氏の神子を守る為に、多くの兵士が脇を固める。
ただ、余りにも敵の数が多すぎて。そして、余りにもこちらは無力だった。
一騎、また一騎と強風に煽られた桜の花びらの様に兵は斬られ散っていった。
気が付けば周りには八葉を除けば、味方は数騎しか残っておらず、
源氏の御大将の首を狙う平家の猛者どもに完全に囲まれていたのだった。
九郎は最上段に構え、名乗りを上げた。平家の兵たちの視線が一気に
九郎に集まる。瞬間、九郎は弁慶に視線を送った。小さく頷いた弁慶が
望美の手を引き、一気に走り出した。
「望美さん、早く!!!」
「でも!!九郎さんが!!」
「彼なら、なんとか切り抜けられます。だから…っっ!!!」
九郎が背後を取られた瞬間、望美は弁慶の手を振り払って、敵めがけて斬り付
けていた。今の今まで怨霊としか戦ったことが無かった望美が、初めて人に
斬り付けた。望美の気配に気が付いた敵兵が振り返る。すると、丁度望美の
剣の切先が、敵兵の咽喉を掻き切ったのだった。
瞬時に、敵兵の咽喉から血が噴き上がった。太い動脈を切ったのだろう。
まるで間欠泉の様に噴き出た赤流が望美に降りかかる。桃色の柔らかい髪も、
白い陶器のようにつややかな頬も、全てが血に染まった。
望美は、その様子を、ただ呆然と見つめていた。怨霊は、幾ら斬り付けようとも
血を噴き出すようなことは無かった。ただ、鈍い衝撃と共に、弱って、
封印して、光となるだけだった。もとより、怨霊は五行の力と残留思念と
死肉の塊。かつては人だったものだが、今は人というよりモノに近い。
そして、それは世の道理から外れたモノだった。だから、怨霊を斬って封印
したとて何の罪悪感を感じたことも無かった。
そうだ。怨霊を斬ることは良いことなのだ。
正しくないものが正しいところへ戻るのだから。
だが、人はそうではない。
人には血が通い。
人には体温があり。
そして、人には…心があった。
断末魔の叫び声さえ上げることの出来ない敵兵と、望美の目が合った。
信じられない、といったように見えた瞳は、望美の姿を認めると憎悪の
光を滾らせ、そして次の瞬間すべての光を失った。望美は向けられた憎悪の
大きさに思わず立ち竦む。しかし、仲間が斬られたことを理解した他の
敵兵が、叫び声を上げながら望美に斬り付けてきた。次の瞬間。
望美の剣は、斬り付けてきた敵兵の肩口を薙いだ。上手く鎧の隙間に剣が
入り、肩から腕が切り落とされる。決して望美は敵兵の腕を切り落とした
かった訳ではなかった。ただ、飛んでいたボールをよけるのと同じ理屈で、
条件反射で剣が出た。そして、腕が落ちた。
今度は断末魔の叫びを伴って、敵兵の肩口から血が噴き出る。望美は、
またそれを呆然と見つめていた。どんどん望美の衣が返り血に染まる。
傍から見れば、返り血に染まりながらも、平然と新手を斬った少女。
不意に望美が視線を敵にやれば、見られた敵兵の間にどよめきと恐怖が走る。
「望美っ!!!」
その隙を突いて、九郎が望美の手を力強く引き、敵の囲いを抜けた。
九郎に引きずられるように走り出した望美は、最後に振り返るようにして
自分が斬った男を見つめた。
血が噴出していた。
死んでしまった。
否。
自分が、殺した。
望美の両の瞳から、音も無く涙が流れ出していたが、当の望美は
そんなことさえ気が付いてもいなかった。ただ、自分が人を殺してしまった
ということの大きさと、そのあっけなさとに、呆然としていたのだった。
敗走する心苦しさで息が上がりそうになりながらも、夜陰を抜け、
自陣近くまで一気に駆け戻る。後顧の憂いが消えたところで、九郎は
一旦休憩を取ることに決めた。
「とりあえず、ここに座って待ってろ。」
返事のない望美を無理矢理手ごろな石に座らせた九郎は、川縁に近づいて
水の澱んでいない、綺麗な流れを選んで手ぬぐいを浸した。
ここでも大きな戦いがあってようで、矢の破片など戦いの名残が散乱している。
それらの芥をよけながら、浸した手ぬぐいをぎゅっと絞ると、九郎は
望美の元へ戻った。望美はまだ、遠くを…自分が逃げてきた方向を見つめて
いた。
「望美。」
声をかけると、望美が九郎の方へ振り返る。いつもの様に、少しはにかむ
ような笑みを湛えながら。しかし、その頬は返り血で染まり、瞳は、
どこか遠くを見つめたままだ。きっと流した涙が、返り血を洗い流し、
その頬に涙の跡を刻んでいることになど、気が付いてもいないのだろう。
九郎は望美の足元に跪くと、そっと望美の頬を手ぬぐいで拭ってやった。
しかし、時間が経ってこびり付いた返り血は、なかなか綺麗になっては
くれなかった。仕方なく、少々力を込めて拭いてやる。
「もう、大丈夫だよ。九郎さん。」
そう呟く望美は、九郎の目から見れば全くもって大丈夫の様には見えない。
何かの拍子にぽっきりと折れてしまいそうな、首の細い可憐な花のような
危うさが、今の望美にはあった。
「しかしだな、その…返り血がついたままでは気持ちが悪いだろう。
生憎、着替えの一つも用意できない。せめてもう少し顔だけでも綺麗にして…」
「有難う。でも、本当に大丈夫。」
「…大丈夫なものか。」
九郎は思わず俯く。九郎を助ける為に、望美が敵兵に斬り付けた様を
まざまざと思い出す。切先が敵兵の首を抉り、血が噴出した瞬間、
瞠目した望美の表情を。あれは武人の表情ではなかった。あれは…
剣などもったこともない、17の少女の表情だった。九郎が守ってやるべき
少女の顔だった。
何で思いやってやれなかったのだろう。
九郎は肩が震えるほど自分の至らなさが腹立たしくて仕方が無かった。
花が断てるから、剣の技量があるから…望美を戦に同行させてしまった自分の
浅慮に腸が煮えくり返る。剣の技量があるから、自分と同じ…武人という訳で
はなかったのだ。
「…九郎さん?」
望美が、少し綺麗になった頬を撫でながら、九郎に声をかける。
九郎は望美の顔を見つめることが出来ず、俯いたままその声に答えた。
「今更遅いが、やはりお前を戦場につれてくるべきではなかった。」
「私、足手まとい…ですか?」
「いや…お前は十分に腕も立つ。その辺の兵士に比べて武術の腕前に
関しては遜色もない。」
「なら…どうして?」
漸く九郎は顔を上げると、精悍な眉を憂い深げに寄せ、頭を振った。
そして自分の顔の感触を確かめていた望美の手をゆっくり取ると、無骨な手で
優しく望美の手を包み、大きな溜息つくかのように言ったのだった。
「お前、この手で…今日初めて人を斬ったのだろう?」
望美に返事はない。九郎は自分の手の中にある、望美の手の感覚を確かめる。
幾分剣の修行の所為で肉刺など出来てはいたが、この手は本来剣を握る為の
手ではない。人を愛でる為に在るべき手だったのだ。
「だというのに…俺は…。」
「九郎さん。」
望美は開いていたもう片方の手を、九郎の手の上に重ねる。そして、
力強く九郎の手を握った。
「私、九郎さんの役に立てたかな?」
「望美……。」
「立てたんなら、それでいいの。それなら、私、うれしいから。」
九郎は思わず言葉を失う。そして、また、人を斬り殺した時の望美の
表情を思い出す。あんな思いをしても尚、望美は気丈にも九郎の役に
立てたかどうか、聞いてくるのだ。望美はそういう娘なのだ。
人の為に、力を尽くすことにためらいがない。穢れ無き、神子。
そして、そのために、その手に、その体に…多くの血を浴びてしまった。
「…そうか……お前は……十分に頑張ってくれているぞ。」
九郎のその言葉を聞いて、初めて望美の表情に微かに安堵の色が宿った。
そんな望美を見つめたまま、九郎は小さく頭を振る。本当は、血塗られた
道に引き込んで良い訳が無かった。望美は九郎のように戦うために生きる
人間ではなく、本来は清浄なる神子で…守られるべき人間なのだから。
しかし、望美のあまりにも純粋な願いに、九郎はどうしても否定の答えを
返すことが出来なかった。
「最早、詮無き事なのか……。」
「九郎さん?」
「いや、なんでもない。そろそろ陣に戻ろう…先生がお戻りになってるかも
しれん。」
「そうですね…戻りましょう。」
九郎は血塗られた望美の手を引いて、京に戻るべく丹波路を歩んで
行ったのだった。
それから。
随分と待っていたのだけれど、結局先生は帰ってこなかった。
三草山での敗戦がひびいた源氏は、私達の世界の史実とは違い、滅亡の危機を
迎えることとなる。そして、私は紅蓮の炎に焼かれる京の町である一つの
奇跡に出会う。
白龍の逆鱗のもたらす、時空跳躍という奇跡に。
手始めに三草山での戦いをやり直した。
やはり平家に裏をかかれたが、前ほど酷い戦いにはならなかった。
そこでもまた私は人を斬った。今度は朔が危ない目に合いそうになったからだ。
仕方がない。
それからも何度も何度も時を遡り、やり直しをした。
先生が言うとおり、時の川の流れを一度に変える事は難しい。
小さな小石を積むように。一つ一つ手直しして流れを変えていく。
そして、その度ごとに、また私は人を斬った。
仕方がない。
一人救うために、一人斬った。
大勢の仲間を救うために、大勢の敵を斬った。
やがて、私の剣の腕前は先生をも超越した。
場数を踏めば踏むほど、私の腕前は冴えわたる。
やがて圧倒的な武力とそれが与える恐怖は、戦場を支配する力となる
ことを知る。戦場を支配できれば、それだけ、無駄な犠牲を払わなくて済む。
だから、私が強くなるのは仕方がないことなのだ。
だというのに、何故。
何故、みんなは…。
あれは、何時の三草山の出来事だったのだろうか。
望美は辺りを見回すと、怨霊使いの姿を見つけた。すぐさま、周りの敵を
威嚇しながら、怨霊使いとの間合いを詰める。斬りかかってくる敵を
適当にいなし、切先で軽く小手のない手首や肩口を狙う。筋を断てば、
太刀を振るうことも弓を引くことも難しい。一人首を刎ねるより、
数人に怪我を負わせたほうが士気も下がるし、剣の磨耗も少ない。
効率的な戦い方だった。
望美は怨霊使いまでに何度太刀を振るえばよいか、軽く算段を立てて
風の様に戦場を駆け抜けた。そして、計算通りに怨霊使いに斬り付ける。
望美の気配に気が付いた怨霊使いが、太刀を振上げるが、既に時遅く。
望美が下段から、力いっぱい振上げた剣の前に、首を刎ねられる以外に
道は無かった。
本来なら、望美の筋力ではそのような剣の振るい方は上策ではないのだが、
斬られ吹き飛ばされる生首を見せ付けるのは、敵の士気を下げるのに
とても有効的だった。それに怨霊使いを斬る分には返り血を浴びることも
ないので、その点においても都合が良い。そして、怨霊使いの指揮を失った
怨霊を封印することは、指揮があるときに比べて格段に易しい。
良い事尽くめだった。だから、斬った。
狙って斬った。率先的に斬った。
斬って斬って斬って、叩き斬って。
戦は源氏の圧倒的な勝利に終わり、とうとう福原に攻めるに至った。
その戦いにすら、圧勝して。皆が意気揚々と京への帰り路についた、その時
のことだった。
「望美。」
「あれ、どうしたんですか、九郎さん?」
殿をてくてく歩いていた望美に、先に進んでいたはずの九郎が声をかける。
わざわざ馬に乗って戻って来たのだ。そして、少し心配そうに声をかけた。
「その…大丈夫か?」
「え、なにがですか?」
今日の望美は、前の望美と違って返り血一つ浴びていない。怪我もして
いない。そして、人を殺してしまった罪悪感に苛み、自然と涙を流して
しまったりもしていない。至極、平常。
平常。そう、人斬っても。至極、平常。
九郎の唇が何かを伝えようと、不器用に動いたのだが、それは上手く
言葉にならなかった。何か苦いものでも飲み込んだように、九郎はぐっと
黙り込んでしまった。
「…九郎さん?」
望美は馬上の九郎を見つめる。気が付くと、九郎は手綱をその手が白くなる
程強く握り締めていた。九郎は気が付いていないようだったが、それは
九郎が何か強い感情や緊張感を感じてる時に出る、癖のようなものだった。
怪訝に思った望美は、更に馬上の九郎の顔を真っ直ぐ見つめた。
そして、気が付いてしまった。
九郎の瞳の中にそれがあることを。
戦場で敵兵が見せるのと同じ色をした、
望美を恐れる…恐怖の光を。
「く…ろうさん…?」
望美の声が、思わず途切れ途切れになる。しかし、九郎は強く握っていた
手綱から右手を手放すと、望美の方へ向けた。
「…今日は、疲れたろう。特別に、乗せてやる。」
「え…。」
躊躇う望美の手を強引に掴むと、九郎は馬上に望美を引き上げた。
九郎に抱きかかえられる形で馬に乗った望美は、再度九郎の瞳を見つめる。
しかし、そこには望美のことを思いやる優しい九郎の柔らかい瞳がある
だけで、先ほどの光は見えなかった。
だが、それは見間違いではなかった。
気が付けば、リズヴァーンにも、そんな瞳で見つめられていたのだ。
みな、望美の力に恐怖を感じていたのだ。
ただ、それ以上にみなは望美のことを思っていてくれたのだった。
でも、そこには確実に。
望美に対する恐怖があるのだ。
私は、みんなの役に立ちたいだけだったのに。
私は、ずっとそう思っていたのに。
私は、みんなの役に立てたはずなのに。
私は、私のはずなのに。
でも、なんで。
そんな目で。
私を…見るの?
「俺と、お前は…同類、だな。」
低く呟くように笑った男の声が、耳の奥に蘇る。
「獣の様な、女だな。」
目をすっと細めて楽しそうに笑った男の声が、耳について離れない。
「私は、私はっっ!!!!!」
望美は思わず、大声を上げそうになる。しかし、激しい頭痛と、
熱っぽい体の所為で、上手く声帯を動かすことが出来なかった。
こほこほと苦しい息が漏れる。視界が、ぼやける。
「私は………。」
頭が痛い。ここは何時の三草山なんだろう。いや…私は三草山にいた?
そうじゃない…勝浦……雨の中……ここは、どこ?
「やっと…お目覚めのようだな、女。」
低く呟くような声が耳元に流れ込む。そして、望美はやっと自分の体が
熱っぽい理由を知ることになる。
「と、も、もり…?」
望美の言葉は続きがあるようだったが、男の唇は戯れに望美の唇を塞ぎこん
でしまい、その続きが紡がれることは無かった。
次項
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