世の中の

現の闇に

見る夢の

驚くほどは

寝てかさめてか



F.焦熱地獄



夕暮れ時が近くなり、空に赤味が差し始めているにも関わらず、
相変わらず雨が止む気配はない。肩に女の重みを感じながら、
知盛は赤い雨を降らせる天空を見上げた。

女の重みは確かにあるのに、先ほどまで感じていた眩いばかりの殺気は
最早どこにもない。知盛は荷物の様に担いだ女に一度視線を送ると、
小さく溜息を付いた。


「夢か、現か……まぁ、どちらでも構わない…
 今一度、あの世界に…出会えるのであれば、な……。」



館の門をくぐると、童女に大傘をささせた白拍子が出迎えに出ていた。しかし、
知盛が女を担いでいることを認めると、途端に白拍子の表情が険しくなる。
知盛はそんな白拍子を一瞥すると、ただ、一言だけ言葉を発した。


「床の準備は出来ているのか?」
「………はい。整えております。」


随分と間の空いた白拍子の返事を気にすることもなく、知盛は館の中に
入ると、まるで荷物か何かの様に、肩に抱えていた女を放り投げた。


「知盛様、そんなに手荒く扱われては、お体に傷が付いてしまいますよ。」

先に戻っていた嫗が、知盛に非難めいた忠言をする。床に横たわる
女の姿を見て、嫗は瞬時に館の主の顔になっていた。


「ふん……顔に傷が付こうとしったことか。太刀さえ振るえれば
 それでいい。」
「……かしこまりまして。これ、白菊。こちらのお嬢様の着替えを。」
「私がですか?童にやらせれば良いでしょう?」


白菊と呼ばれた、先ほどまで知盛の相手をしていた白拍子が不服そうな
顔をする。しかし、嫗は一段と厳しい口調で白菊に命じた。


「無論。但し、今は急ぐのです。童たちの手だけでは余るもの。
 さあ、早くあちらの部屋へお運びなさい。」
「…分かりました。」


やはり不服そうな返事をして、白菊は嫗と共に気を失ったままの女を
奥の部屋へ運んでいった。知盛も、すっかり濡れそぼってしまった
自身の衣を着替える為に、先ほどまで使っていた部屋へと戻った。

びしょびしょに濡れてしまった髪や体を童に拭かせると、知盛は着替えも
そこそこに、女が運ばれた部屋へ向かった。童が衣を着せるのに
手間取ったため、気が急いた知盛は、片肌脱ぎのだらしがない格好
のまま、部屋へ向かう。

丁度知盛が目当ての部屋に付くと、丁度薬師が部屋から出てきた。
身なりは薬師のようだが、港町の男に相応しい容貌の男が、無言で
部屋に入ろうとした知盛を一瞥し、険のある目つきで声をかける。


「…旦那、あまり無理させちゃあいけませんぜ。火の気が強いお方が
 こんなに雨に濡れちゃあ、具合が悪くなって当然なんだから。」
「そんなに…悪いのか?」
「まぁ、とりあえず安静に。後は目が覚めたら、枕元においてある
 薬湯を必ず飲ませてやってくれ。アレは体の芯から熱くなる
 薬だから。」
「……分かった。」


知盛は体の良い返事を返して面倒臭そうに薬師を追い払うと、
女の眠る部屋へ入った。そして、部屋の真ん中に設えられた褥に
女が眠っていることを確認すると、すっと褥に近づいた。

知盛は褥に眠る女を暫く見つめた後、ゆっくりとその場に座り込んだ。
そして、再度目を細めて女を見つめる。少し苦しげに眉を寄せて眠る
女の肌は、陶器の様に白い。全体的に小さなつくりの顔の造作を一つ
一つゆっくりと眺めると、知盛は、女の少し色を失った薄い唇に
ゆっくりと指を這わせた。


「美しいというよりも寧ろ、愛らしい、と言ったところか…」


そう呟くと知盛は、指先を唇から、ぎゅっと閉じられた瞼の上に
移動させる。この眼が開かれれば、あの眩いばかりの殺気を見ることが
出来るのかと思うと、自然と知盛の胸は高鳴った。

知盛は、指先を女の瞼の上に置いたまま、ゆっくりと目を閉じる。
そして、龍神温泉で初めて感じたこの女の殺気と…先ほど相対した時の
殺気を順に思い出していた。あの日以来、繰り返し繰り返し夢想していた
殺気は、先ほどの出会いによってはっきりと知盛の中に刻み込まれた。
思い出しただけで、肌が粟立ち、甘美な悪寒が走る。絶望的なまでに
白い、女の世界。

しかし、その瞼に触れてみても、一向に目を開ける様子はない。
女の肌は肌理細やかで、なんとも良い手触りをしていたが、その温度は
氷の様に冷たかった。知盛は何度か頬に触れてみたりもしたが、
それでもやはり目を覚ます気配はない。


「ク……焦らせて、くれるじゃないか……ん…?」


瞼を撫でていた知盛の指先が、微かな熱を感じた。女が、きつく眉根を寄せな
がら一粒の涙を流していたのだ。すっと、知盛の指先がその熱を拭う。しかし、
女の瞼から止め処も無く涙が溢れてくる。


「夢の逢瀬で、涙を流すのか……。」


じりっと、知盛の胸の最奥で肉が焦げるような鈍い違和感が走る。自分は
身動き一つしない女の体を見つめるばかりで、こんなにも面白くない
思いをしているというのに…女は一体どんな夢を見て、しとどに涙で眦を
ぬらすのか。知盛の指先は自然と、女の眦から唇へ動き、そしてそのまま
ほっそりとした首筋を撫で、雑然と着せられた衣の中へ差し入れられた。

熱も無く陶器のような女の肌を、知盛の指がすっと撫でる。太刀を振るうに
しては、随分と華奢な肩を撫でて、肩の最頂部の丸みを帯びたラインをなぞった
知盛の指先は、ある一つの異変に気が付いた。それまで滑らかだった女の肌
にある、一筋の傷跡。

その傷跡が何によってもたらされたか瞬時に察しが付いた知盛は、
女の衣を力いっぱい肌蹴させた。途端に華奢な女の肩が、腕が、知盛の
眼前に現れた。知盛は、先ほど指先が撫でた辺りにある、桃色の絹糸を一筋
垂らしたような傷を注視する。それは知盛がにらんだとおり、刀傷だった。
きっと出来の良い太刀で斬り付けられたのだろう。傷口はすっと一直線に
伸び、傷跡であるにも関わらず、女の白い肌に一筋の紅を差したかのように
美しい。しかし、その美しい傷跡を確認した知盛の胸の最奥では、先ほどにも
まして一段と、焦げ付くような違和感が強くなる。

あれだけの技量と場を支配する恐怖を持ちながら、いつこの女はこの傷跡を
付けられたのだろうか。女にこの傷を付けた男は…一体どうなったのだろう
か。あの細剣に身を切り刻まれて果てたのか。あの、白い、絶望的な世界
の中で…知盛は再度、視線を女の顔へ移す。しかし、女の眼はきつく
閉ざされたままで、相変わらず目覚める気配は無い。


「くっ…ならば……。」


知盛は、床の近くにおいてあった薬湯を一口含むと、女を抱き上げ、
首の後ろに手をやり、無理矢理女の唇を開かせる。そして自分の唇を
深く、深く合せると口移しで薬湯を女の体に流し込んだ。零れた薬湯が
女の口元から一筋垂る。無理矢理流し込まれた薬湯にむせたのか、
女がこほ、こほと小さな息を漏らすのさえも無視して、知盛は女に
薬湯を飲ませ続けた。

やがて、知盛は薬湯を半分ほど無理矢理飲ませたところで、女を褥に横たえ
させた。そして、袖で自分の口元に付いた薬湯を拭う。


「なるほど、体を熱くさせる薬…か。」


薬湯を口移しで女に与えた所為か、知盛の体も芯から熱を帯びているようで、
額にうっすらと汗をかくほど、体が熱くなっていた。知盛はだらしなく
きていた衣を半脱ぎにすると、鍛え上げられた上半身を露にする。
そして、横たえていた女の頬に触れてみた。


「…まだ、随分と冷たい……。」


先ほどに比べれば随分と頬に色を増した女であったが、いざ触れてみると
まだまだその肌はひんやりとして冷たい。自分の体の方が先に熱くなって
しまったという事実に気が付いた知盛は、至極当然に次の手段をとった。
知盛は女の衣の帯を解く。そして、露になった体を抱きしめると、肩口の傷跡に
そっと舌を這わせ始めた。

最初は何の反応もない女の体に苛立ちつつも、知盛は執拗なまでに女の
傷跡を舐める。どこの男に付けられた傷なのか…考えるだけで感じる
焦げ付くような違和感を、そのまま形にしたように、桃色の絹糸のような
傷跡の上に赤い花びらを…知盛が口付けをした証を散らす。

やがて女の傷跡が赤い花びらで埋め尽くされ、知盛が微かに満足を感じた
頃、女の唇が僅かに動いた。最初はこほ、こほと苦しい息を漏らすだけ
だったのだが、やがてその息は少しずつではあるが言葉の形を取り、
「私は…」と呟いた瞬間、女の目が見開かれた。

瞬時、知盛は女の瞳を見つめる。未だ焦点が定まらぬと思しき女の瞳は、
それでも確かに、あの白い世界を…彼岸と此岸に身を置くものだけが
持ちえる世界の光を湛えていた。


「やっと…お目覚めのようだな、女。」
「と、も、もり……ん……。」


女は、知盛の名を呼んだようだった。しかし、知盛は、思わずその唇
を己が唇で塞いでしまう。女に熱を与え、女が目覚め、女が白い世界を
見せる。そんな事実が極単純に、知盛を喜ばせたのだ。しかし、
その喜びも束の間、知盛に半裸にされ、抱かれていることに気が付いた女は、
知盛の口付けを頭を振って無理矢理外すと、精一杯の力で知盛の腕の中から
逃げようとする。


「いや!!離して!!!いやぁ!!!!」
「ちっ……随分なあしらいをしてくれる。」


元より女の瞳が見たかっただけで、犯すつもりなど無かった知盛だったのだが、
女のその態度は気に食わない。もがく女の肩に見える傷跡が…さらにその思い
を強くする。


「…その刀傷を与えた男とは…寝たのか?だったら、俺と肌を合わせるのも
 悪くはあるまい?」
「…傷?」


それまで必死に知盛の腕の中でもがいていた女の動きがぴたりと止まる。そして、
自分の肩にある傷に一旦目をやってから、女は知盛の瞳を見つめた。
女の瞳の中には先ほどまでの、白い世界も、男に抱かれているという
恐怖感も無く、まるで凪のように静まり返っている。それはまるで…


「まるで死人を見るかのように、俺を見つめるんだな。」
「……。」


女に返事は無い。ただ、女は真っ直ぐに、知盛を見つめている。


「く…女…。」
「女、じゃないよ。望美。」
「……は?」
「私の名前。春日、望美。」
「の、ぞ、み?」
「そう、のぞみ。願い。願望。希望。それが私の名前。」
「ほう、随分と…有難い名前ではないか。さすがに源氏の神子、と言った
 ところか?」
「私は…私は誰かのためにありたかった。誰かのために役に立ちたい…
 私の名前は、そのまま、私の在り様。」
「ならば、俺の『のぞみ』も叶えてもらえるのか?」


女は…望美は答えない。その代わりに、真っ直ぐに知盛を見つめたまま、
一粒だけ涙を流す。知盛はその熱い涙を指先で拭いながら、望美の唇に
己が唇を重ね合わせた。軽い口付けを二度三度と交わしたあと、知盛は
望美の衣も完全に脱がせると、自身の帯も解き、望美を横抱きにする。
望美も抵抗せず、大人しく知盛に抱かれ、その首筋に腕を回し、銀糸に
隠れた耳元に唇を寄せた。


「肩の、傷はね…私の心を因獄の中に閉じ込めた人に付けられたんだよ。」
「そうか…それで囚われたお前は、どうしたんだ?」
「……したよ。」
「…ん?」


望美の声が聞き取れなかったのか、知盛はそれまで望美の体を撫でていた
手を止め、自分の耳元の髪を掻き揚げると、真っ直ぐに望美を見つめた。
知盛のそんな様子を見て、望美もやはり真っ直ぐに知盛を見つめ、再度
その言葉を口にする。


「殺したよ。」
「…そうか。」


一拍の間をおいて、知盛の口の端が微かに上がる。そして、望美を見つめる
紫水晶のような双眸は、あの時と変らず喜びに満ちた色合いをしていた。
生田の森で出会い、壇ノ浦で斬り合った…あの時と、全く同じ色合いを。
望美はそのことを確信すると、ゆっくりと瞼を閉じ、知盛にその身を
完全に預けたのであった。




次項

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(冒頭挿入 新拾遺和歌集・哀傷より)