男の腕の中はまるで海のようだ。
女は、そう思った。
荒ぶる波に身を叩き付けられ、波間に沈む。
呼吸が出来ない。苦しみに顔が歪む。
「クッ……目を……瞑るな。」
かと思えば、波は急速に穏やかになり、
春の海の漣の様に、女の体を撫でていく。
「あ……と、も……も…り………。」
女はうつつとゆめと、快楽と苦痛と。
さまざまな狭間に身を漂わせながら不意に思う。
確かに最期に海へ沈むのは悪くないな、と。
「瞳を…見せろ。お前を…お前の世界を、俺に。」
耳元で男の声が聴こえた。
G.切欠
昨日の大雨がまるで嘘だったかのように、雲一つない青空が勝浦の空に
広がっている。今日も茹だるような暑さになりそうだと、将臣は溜息を
つきながら快晴の空を見上げていた。普段の陽気な彼の姿からは想像できない
ほど、今日の将臣の表情は冴えない。将臣の憂いは暑気だけにあらず。
昨日、将臣が放っていた間者のもたらした知らせが占める割合が大きかった。
「熊野の結束は固く、三山は動かず、か……。」
まぁ、源氏へ動かねぇだけマシか…と一人ごちた将臣は、気を取り直して今後の
方針を考える。とりあえず、これ以上熊野で時間を浪費することは得策では
ない。今はとりあえず、熊野に来て以来、ほとんど役に立つことが無かった
連れを拾うのが先決だった。彼の連れ…知盛は、将臣が隠密活動をするのに
適当だと判断した安宿が気に入らなかったようで、赤い太鼓橋を渡った先の
歓楽街に勝手に宿を定めていた。知盛の身勝手な振る舞いに、言いたい事は
山ほど…どころか、地球一週分ぐらいあった将臣であったが、一度そうと
決めた知盛は梃でも動かない。知盛は、物事の99%ぐらいは決めるのが面倒
なのでどっちでもいいというようなタイプなのだが、その代わり拘りのある
1%にかける執着が物凄い。ほんの三年ほどの付き合いでも十分にそれを
理解させられていた将臣は、とりあえずそのまま知盛を放っておいた。
本当、アイツ何しに熊野に来たんだか…などと考え事をしているうちに、
将臣の足は、知盛の定宿に到着していた。
「よぉ、朝早くから悪りぃな。」
落ち着いていながらも、分かる者が見れば金がかかっている事が一目瞭然
の建物の一つに、将臣は入っていった。出迎えに出てきた童の頭をくしゃりと
撫でて、館の主である嫗を呼び出す。
「これはこれは…今日は朝早くからお越しで。」
「ああ、ちょいと火急の用ができてな。連れを拾いにきた。」
「お連れ様でございますか。その…お嬢様の方で?」
「は?お嬢様???」
なんか、食べ難いな…と思いつつも、望美は、箸でそっと摘んだ芋の
甘葛煮を口の中に入れた。目の前には、自分の膳には全く手を付けず、
朝から杯に酒を満たした知盛が、芋を頬張る望美を目を細めながら見つめている。
知盛はたまに軽く口の端を上げると、唇を酒で湿らせる程度に杯を口にした。
どうやら食事をする望美を肴に飲んでいるらしい。望美はもう一つ芋を
口の中に放り込むと、ゆっくりと昨日から今朝にかけてのことを考えた。
望美の記憶では、雨に煙る町並みと、殺気と、金属が奏でる戦いの和音の
中で、知盛と斬り合いをしていた筈だったのだ。だが、気が付けば知盛の腕の
中に囚われていた。確か、少し昨日は具合が悪かったから…どこかで
気を失ったのかもしれない。だというのに、知盛は自分を斬り殺さなかった
のか。それとも…これは夢なのだろうか。未来を見ることに疲れた自分が
望んだ夢なのか。望美は一旦箸を膳において、目の前にいる男を見つめる。
知盛は先ほどと変らず、杯を口にしている。そして、杯に向けられていた
視線を望美の方へ向けた。
紫水晶と翡翠の瞳が互いを見詰め合う。
そこに言葉は無く。
ただ、見詰め合う。
先に視線を外したのは望美の方だった。望美は昨夜も感じた確信を、
再度胸に抱く。紫水晶の瞳は、何時いかなる時も…たとえ望美が
人殺しだと告白をしようとも、望美を見つめる光の色に変りは無い。
ただ、真っ直ぐに…楽しそうに、望美を見つめていた。
望美は最後の一つとなった芋を名残惜しげに口の中に入れた。知盛に見つめ
られながらの食事は緊張して味もへったくれもないのだが、芋の甘葛煮だけは
別格だった。元の世界で言う上白糖なんぞ無い時代、甘味料は相当な高級品
なのだ。四季折々の天然素材の自然な甘みが主で、甘味料と使った食事を
することが出来るの極限られた一部の人間のみ。源氏の御大将の軍に属する
望美とはいえ、めったに口にする事は出来ない。そんな高級なものが朝餉の
膳にさらりとでるのだ。この館の格が知れる。望美の視線はそんな高級な
食事を箸でニ、三度つついたきり全く口にしようしない知盛から、知盛が
口にしない芋へ注がれた。
「…それも、食うつもりか?……クッ…朝から、良く食う女だな。」
「そ、そんなことないもん。食べたいなんて、言ってないし。」
「目が……欲しいと、言っている。」
「……そ、そんなこと…ないもん。」
「食っちまえよ、望美。どうせ、コイツ甘いもん嫌いだから、食わないし。」
「………。」
「将臣君!」
知盛と望美はほぼ同時に声がした方向へ顔を向ける。するとそこには御簾を
ひらりと押し上げて、顔をのぞかせる将臣が立っていたのだった。
将臣はそのまま御簾を押し上げ、望美の前に座る。そして、軽く望美の頬に
手をやると、望美の熱を確かめた。
「お前、行き倒れて俺の連れに拾われたんだって?さっきやり手婆ぁ…
じゃなかった、館の主から聞いたぜ。主の話す女の様子から、まさか
と思ったら、本当にお前がこんなところで飯食ってんだもんな、
驚いた。」
「うん、私も凄く驚いたよ。将臣君がこんなところに現れるなんて。」
「……ははは。まぁ、娼館だもんな、ここ。」
「…え?そうなの?ここ……。」
「ぷは、マジで気付かなかったのか、お前!って。大丈夫だったか、
望美。いろんな意味で…」
「ん、大丈夫だよ?」
「そうか、なら良かった…」
その言葉を最後に、将臣は望美の頭をくしゃりと撫でると、視線を
知盛に移す。知盛は二人の会話を、無言のまま、ただただ見つめていた。
そんな知盛に、将臣は一瞥鋭い視線を投げると、部屋の外へ出ることを
促した。
「じゃあ、ちっとコイツに用があるから、席外すわ。あ、望美
その膳、全部食っちまっていいぞ。どうせコイツ朝餉はほとんど
食わねぇからさ。」
「うん、分かった!それでは美味しく頂きます!!」
「…………。」
望美が勢い良く芋に食らい付いたところで、将臣は知盛を連れ立って
部屋を出た。そして望美の様子を窺うように、少し離れた中庭へ降り立った。
「………暑い。」
「…しかたねぇだろ。誰に聞かれるとも分かりゃしねえ。なかなか
こういう場所は人払いが難しいからな。」
不機嫌そうに睨みつける知盛の視線を、真っ直ぐに返して将臣は呟いた。
先ほどまで望美に見せていた笑顔はなく、眉間に深い皺を寄せている。
その様子を小首をかしげ、目を細めなが見つめていた知盛が、ふぃに
口の端を上げた。
「熊野は動かず、か?兄上……。」
「…………まぁ、そういうこった。」
「ク………遠からず、戦、だな……。」
「何、まだ和平って道もな…あの食えねえ狸ジジイ相手に難儀はするだろう
けどよ………。」
「どちらにしろ、熊野で得るものは無かった……そろそろ潮時、という
ことか。」
「まぁ、な。つーーか、お前、本当に役に立ってないな。バカンスに
来たみたいなもんだな。」
「………。」
知盛に返事はない。どうやらバカンスという言葉を知らなくても、将臣が
軽く嘲りの意味を込めて発言したことを理解したらしい。少しばかり不機嫌
そうに眉を細めて、将臣を睨み付ける。しかし、それはほんの僅かな時間で、
知盛の視線は、将臣からすっとはなれて、先ほど退出した部屋の方へ注がれる。
「どうした、知盛?」
「……いや………なかなか楽しい熊野詣だった。」
「…本当にバカンス気分だな。お前。」
将臣と知盛が退出し、人気がなくなった部屋で望美は知盛の分の朝餉に
手をつけていた。流石に朝から二人前の食事を完食するのは難しい。
適当なところで望美は箸をとめると、温くなったお茶を口に含んだ。
「三山は動じず。将臣君もそろそろ潮時だね…」
望美は髪を掻き揚げ、耳にかけると、ぽつりと呟いた。このままの流れで
行けば、和議は成らず、次に知盛と会うのは壇ノ浦か。勝浦で出会い、
共に過ごした知盛は既に一度斬っている。多少の出会いの差こそあれ、
どうやらまた同じ結果を迎えることになりそうだ…そう確信した望美は、
深い溜息を付く。最後まで見届けて、それを確認するべきか。
それとも、また時空を越えて戻るべきなのか。
「いこか、もどろか…たしか、そんな名前の映画あったよね。
あれ…お母さんとテレビで見たんだっけ……そんなことすら、
もう、思い出せない。」
望美は再度溜息を零す。しかし、小さく頭を振ると、視線を先ほどまで
知盛が座っていた場所に送った。
「ほんの僅かでも、違うことが起きたなら…違う選択をすることが
できる可能性もあるよね。だから…行くよ。最後まで見届ける。」
そう決心した望美は、すっと立ち上がると、将臣たちがいる中庭に向かう。
「おー望美。」
鷹揚に手を上げる将臣に向かって、望美は小さく手を振る。知盛は無言のまま、
目を細めて望美を見つめていた。
「将臣君、私、自分の宿に戻るね。」
「お、もう戻るのか。じゃあ、送っていくぜ。」
「ううん、大丈夫。一人で帰れるよ。」
「…また行き倒れたら困るだろ。」
「うん、でも大丈夫。おなかもいっぱいになったし。」
「なんだよ、腹へって行き倒れたのかよ!」
「えへへへ…うん。だから、大丈夫。」
「そうか。」
一人で帰る決意が固いことを知ると、将臣はそれ以上望美を引き止めなかった。
その辺り、望美が割合強情で、一度言い出したら聞かないことを、幼馴染
の将臣はよく理解していた。それに将臣の方も、他の八葉たちにあって
引き止められるようなことがあれば、面倒になると少々思っていたのだった。
館の主の口ぶりから、きっと望美が外泊することを八葉たちは知らなかった
だろう。もしかしたら、まだ望美の事を探しているのかも知れない。
将臣一人ならいいが、知盛のことも説明せざるを得ない状況になりかねない。
将臣の計算が、望美を一人で帰らせることを良しとした。
「支度済ませたら帰るね。じゃぁね!」
「おう。」
望美は知盛が使っていた部屋に戻ると、陣羽織を身につけ、剣を腰に下げる。
未だ湿り気を帯びた陣羽織が、昨日雨の中で知盛と打ち合ったことが事実で
あることを、望美に告げていた。
すっかり支度を終えた望美が、館を後にする。すると、出入り口の門の近く
で将臣と知盛が見送りに出てきてくれていた。将臣が大きく手を上げる。
その横に佇む知盛はだるそうに両手を組んだまま、身動き一つしない。
日中の知盛は酷く緩慢だな…と望美が苦笑交じりに思った瞬間、知盛と
目が合った。すると、知盛の唇がかすかに動く。
「の…ぞ…み…」
望美ははっと息をのむ。確かに、知盛はそう、唇を動かした。
しかし、それは、望美の名を呼んだのか、それとも昨日知盛が口にした
「のぞみ」を叶えろという願いだったのか。一言言葉を発したきり
くるりと望美に背を向け、館へ戻っていった知盛の背中からは、どちらが
正しいか正解を得ることは出来なかった。
次項
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