母上、そのようなお顔をなさってはなりませぬ。
それが私の望みなのですから。
私が例え命を落とそうとも、帝や母上の…ひいては
平家の安泰に繋がるのならば。
……ああ、母上。ですから、そのようなお顔をなさいますな。
本当にそれが、私の。
…ノ…ゾ…ミ……
なのですから。
H.満願成就
「知盛、入るぞ。」
知盛からの返事も待たず、将臣は形ばかりに設えられた御簾を引き上げた。
舟の中に設えた仮初の局には、女房を一人従えた知盛が具足を身に着けている
最中だった。将臣の闖入にも、眉一つ動かすことなく、知盛は泰然としている。
それに比べ女房の方は、最後の戦になることを予見しているのか、具足の紐を
結ぶ手が覚束ない。確かもう一人、知盛には御付の女房がいたはずだったが、
辺りには見当たらない。
「そういえば、昨日どこぞの女房が舟から落ちたといっていたな…」
「……ところで、何用だ?兄上。」
あえて気が触れて入水したとは言わなかった将臣であったが、知盛の表情は
変らず、意に介す様子も無い。御付の女房が死のうと、これから死地に
赴こうとも、知盛の気配は変ることがない。傍から見れば泰然自若…
だが将臣は既に理解してた。それはただ静かで落ち着いているのとは違うのだ。
「…凪だな。」
「何か、言ったか?」
「いいや、こっちの話。あ、そうそう。軍議やるから急げ。時間ねーぞ。」
「それなら、昨夜布陣は決まっただろう。今更やる必要はあるまい。」
「あーまーそうだけど。ま、最終確認ってやつだ。」
「………。」
多分、今後全員で揃う機会はない。知盛が囮として御座舟に残り、その間に
将臣は頼朝を強襲する。危険な作戦であるのは共に同じであったが、
二人には決定的な違いがあった。知盛には退路がないのだ。それゆえに、
将臣は最後に一族全員の顔を見ておきたかった。異界で惑った将臣を
受け入れてくれた一族を。
「…分かった。少し、待て。」
将臣の意を汲んだのか、知盛は酷く面倒臭そうに一言呟くと、目を瞑った。
その間に女房が具足を身に付けていく。そして最後に豪奢な籠手を付けると
知盛はすっと目を開いた。具足を付け終わり、戦支度が済んだところでも
知盛の眼差しは変らない。ただ緩やかに、どこか遠くを見遣っていた。
「じゃ、そろそろ行くか。」
「…まだけわいが終わらぬ。」
「けわい?あー化粧か。いちいち面倒くせえヤツだな、お前。」
「………。」
「分かった、分かったって。ほら、とっとと済ませろよ。」
しかし、将臣が女房に知盛を化粧するよう促すも、御付の女房はただ
おろおろとするばかりで化粧の準備をする気配がない。
「ん?どうした?さっさとアイツに化粧してくれねぇか?」
「それが還内府様…化粧道具が今朝方から探しておりますが…見つからない
のでございます。」
「無くしたのか?誰がその化粧道具の管理をしていたんだ?」
「それは……。」
言い澱む女房の様子に、将臣はハタと気が付く。今朝方から無いのであれば、
無くなったのは昨夜。ならば、入水した御付の女房が化粧道具を抱いて
海に沈んだのだろう。知盛を彩った道具を抱いて入水した女房の事にさえ、
意に介しない知盛の冷淡さに小さく溜息を付きながらも、興味のないものに
は一切心を動かさない知盛の在りように、将臣は僅かではあるが羨望の気持ち
を抱いた。迷う気持ちが無ければ、強くなれる。この数ヶ月、特に将臣は
それを痛感していた。
「ま、無いもんは仕方ねえな。あ、お前紅持ってる?」
「は、はい……ここに。」
「ああ、貸してくれ。あと、筆も。」
「知盛、仕方ねーから、今日は紅でいいだろ。」
知盛に返事は無く、ただすっと切れ上がった瞼を再度瞑った。どうやら
了承の意味らしい。将臣は紅を含ませた筆を知盛の顔に近づける。
不意に、どうせならヘンな絵でも描いてやろうかと、将臣の遊び心が疼いた。
その瞬間、知盛がかっと目を見開く。
「遊ぶなよ、有川。」
柔らかな舟の揺れに身を任せ、目を瞑る。生命の発祥は、この舟の下に
横たわる海なのだという。だから、生まれいずる場所に帰れる肉体は、
案外幸せなのかもしれない。自分の今までの行いを正当化するような
考えに、思わず苦笑を漏らすと、望美はそっと目を開いた。
「大丈夫か、望美。」
「…大丈夫ですよ、九郎さん。どうして?」
「いや……その少し顔色が悪いように思えて、な。船酔いしてないな?」
「はい、大丈夫です。少し……緊張してるだけ。」
「そうか……この戦が終われば、全てが決する。最早、無益な戦も
起こらない。後少しだから…堪えてほしい。」
「…はい。」
決戦を前にして、力強い眼差しで未来を展望する九郎に、望美は優しい
笑みを浮かべながら、こっそりと溜息を付いた。この戦に決着が付けば、
謀反人として九郎は、頼朝に追討される。未だその事実を知らないはずの
九郎は、輝かしい未来を夢見て刀を振るうことだろう。そして望美は、
また同じ地獄を見る。
「……望美?」
望美の気配が変ったことに気が付いたのか、九郎が再度望美に声をかける。
しかし、時同じくして、敵の総本陣である御座舟が泊まる辺りに到着した。
九郎の望美を労わろうとした声は、鬨の声に紛れて、望美の耳に届くことは
無かった。
先に御座舟に到達していた兵士達が先登すべく、御座舟の甲板に這い上がる。
九郎も大将でありながら、我先争うように舟の上に上がった。望美もそれに
続く。勢いよく甲板に上がった九郎たちであったが、その場の惨状に思わず
呻き声を漏らした。切り倒され、モノと化した兵士達。血潮の海の中に、
平然と立つ男は、軽く二振りの刀を振るうと、すっと顔を上げ望美を見つめた。
口の端を微かに上げ、眦に紅の戦化粧。真っ直ぐに望美を見つめる眼差し
には、喜色の色が満ち溢れていた。
「随分と、待たせてくれるじゃないか。」
「…知盛。」
「貴様!!…三種の神器はどうした!!」
九郎の叫びなど耳に届かぬ様子の知盛は、二振りの刀を構えると、
望美に挑発的な眼差しを送る。望美は一つ溜息を付くと、その挑発に
答えるように剣を構えた。
「…望美!」
「九郎さん、少し、引いて。知盛は……私が相手になる。」
「しかしだな!」
尚も食い下がろうとする九郎に、望美は鋭い一瞥を与える。それは、望美が
本気で知盛と戦うという意思表示。その眼差しの厳しさに、九郎は口を噤んだ。
そして、少し後ろに引くと、九郎も直ぐにでも援護する意志があると
いう強い思いを表す為に、刀を知盛に向けて構える。
「約束、だったからな。のぞみを叶えてくれるんだろう?」
「それが、貴方の本当の望みなの?」
この期に及んでも、望美は一縷の望みでもないかと微かな希望を抱いていた。
かつて、勝浦で共に舞を舞った知盛は斬り殺した。同じような時の流れを
たどってはいたが、一度肌を重ねた知盛は…そして、今日、眦にいつもとは
違う紅の化粧を施した知盛は、違う選択を選んでくれるのではなかろうかと。
しかし、そんな望美の小さな希望を打ち砕くように、知盛は至極冷淡に
一言返事を返した。
「ああ、それ以外にない。」
「…何故……。」
「さて、な。…太刀を抱くものとして生まれたが定め……といったところ か。」
「……じゃぁ、戦が無ければ…太刀を抱く必要が無ければ、貴方の望みは
違うものになるの?」
「……是非も無い。そんな戯言は、太刀を抱かぬ俺に聞いてみればいいさ。
…お前が来ないなら、俺が行くまで…だぜ?」
「え…?」
そう言い放つと、知盛は一気に間合いを詰める。そして馬手の太刀で一閃、
望美に斬り付けた。咄嗟によけた望美ではあったが、以前一度太刀を受けた
辺りに刀が掠り、熱い傷みが蘇る。しかし、今はそんな痛みよりも、知盛が
最後に発した言葉に、望美は心を奪われていた。…太刀を抱かぬ俺に聞いて
みればいい?……戦いの中に出口を見出せなかった望美にとって、その言葉
一筋の希望の光の様に思われた。しかし、それは同時に残酷な現実を証明
する言葉でもあった。
「戦いの中では、貴方に生きる道は…ない。」
「フ……やっと本気を出す気になったか?」
「…そうだね。最早…今の貴方の望みを叶えてあげることしか、
できないから。」
望美は意を決して、一度目を瞑った。そして、再度開けた時に瞳に宿るのは、
純粋な殺意。知盛が、望んで止まなかった…眩いまでの、白い狂気。
「ああ……そうだ。その眼差し。…お前の本気、見せてもらおう。」
キィン、キィンと鋼を打ち付けあう音が鳴り響く。九郎は先ほどまで知盛に
向かって構えていた刀を下ろした。無論、少しでも望美が危なくなれば
助太刀するつもりでいたが、実際問題として九郎があの斬り合いの中に
入っていける気配は無かった。
「クソ……。」
「落ち着きなさい、九郎。」
「しかし………。」
九郎と同じ様に、知盛に太刀を向けていたリズヴァーンが、溜息を付くように
剣を下ろしたのは、望美が知盛に向かって斬りかかって直ぐのことだった。
何度も何度も…それこそ、数え切れないぐらい望美が知盛と斬り合う様を
リズヴァーンは見てきたが、こんなにも望美が本気になっている姿は、
初めて見るものだった。そして、本気になった望美は、リズヴァーンがかつて
見たどの望美よりも、強い。
「…クッ………。」
知盛は、一度大きく間合いを開くと、弓手で額の汗を拭った。眦の紅が
汗で解けたのか、知盛の手甲を紅く染めた。確実に、追い込まれている。
今までの戦いの中でここまで追い詰められることなど無かった。一瞬でも
判断を誤れば、死ぬ。そんな極限にありながらも、知盛の口の端は上がり、
笑みがこぼれる。そう、これは知盛自身が望んだこと。これは、知盛の
たっての願い。知盛は一度深く息を吸い込むと、大きく一歩踏み出した。
その世界は鮮烈な光の所為で、全ての色が褪せてしまう。
ただ、見えるのは目の前の女の姿だけだった。
まるで舞を舞うように軽やかに、そして微かに笑みを浮かべるように。
女は知盛に斬りかかった。
唯一、無二。
ああ、そうだ。この女は唯一無二なのだ。誰でもない、この女だけが
知盛を熱くさせてくれた。知盛が求めた色鮮やかな世界を体現する
者はこの女、のみ。
故に執着した。
故に羨望した。
故に嫉妬した。
故に、身に付いた刀傷一つさえも許せなかった。
女が他人に触れられることすら、嫌悪する。
激しいまでの独占欲。
…ああ、それは。
恋。
自分はあの女に恋をしていたのだ。
その事実に気が付いた男は小さく笑い、そしてその瞬間女の剣が男の腹を
貫いた。…この男はいつもそうだった。自分が抱く感情が何であるのか、
今際になるまで気が付かなかった。だから、太刀を振るう女が…望美が
微笑みを浮かべているのではなく、泣くのを堪えていることに気が付くこと
が出来なかった。
知盛は腹に深々と突き刺さった剣を、最後の力で引き抜くと、よろめく様に
後退りした。ほぼ即死に近い刀傷を受けても、まだ望美を見つめるように
立つ知盛の胆力は計り知れない。思わず知盛に駆け寄ろうとする望美を、
九郎とリズヴァーンが止めにかかる。
知盛はその様子に、綺麗な柳眉をしかめながらも、ずっと望美を見つめていた。
最後に、もう一度あの肌に…先ほど自分が付けた傷跡に触れてみたい。
知盛はそんな事を考えてみた。しかし実際には、望美に近づくことは
おろか、手を伸ばすことも出来ない。既に多くの血が流れた知盛の体は
立っていること自体が奇跡で、傷口を押さえていた手は、力を失い、
鉛の塊の様に重く、もはや自分の意志で動かすことは出来なかった。
「……クッ……遠いな…」
「知盛!?」
一瞬、知盛の体が揺らぐ。知盛は自分に残された時間が極僅かであること
を理解した。そしてもうよく見えなくなってしまった目で懸命に望美を見
つめながら、最後に…望美に本心を明かす。微かにその口元に笑みを浮かべ
ながら。
「……楽…し……かった……ぜ……。」
その言葉を最後に、知盛の体は糸の切れた操り人形の様に、崩れて落ちた。
九郎とリズヴァーンの手を振り払い、知盛の元に駆け寄った望美であったが、
時既に遅く、知盛の体は船縁から海へ落ちた。それでも尚、懸命に望美は
腕を伸ばし知盛の名を叫ぶ。何度も、何度も…それが無駄であることなど、
過去の経験から理解していたが、それでも叫ぶことを止めることが
出来なかった。
「知盛っ!知盛っ!!知盛ぃーーーーーっ!!!」
滴る血で、柄が濡れる。手が滑る。
だけど私は剣を手放せず。
ただ、アナタの返り血に酔う。
アナタは僅かに口の端を上げる。
その唇から流れるのは珊瑚よりも深い紅。
紅で艶めく唇で微かに笑って。
でも、確かに笑って。
アナタは何時も。
アナタは何度も。
同じ言葉を繰り返す。
『…タノ…シ…カッタ……ゼ。』
そうやってまた私は貴方を殺した。
そうやってまた私の手は血に濡れた。
少しだけ悲しそうな顔をしながら、『遠いな…』と呟いた貴方を。
私は本当に救えなかったのだろうか。
気が狂いそうになるほどの後悔を抱きながら、
私は血塗られた手で前へ突き進む。
理由は簡単だ。
何故なら私には、それ以外に道がないから。
「…ミ…コ…ミコ…神子っ!!」
「ううん……何事……。」
望美は薄ぼんやりとした世界から、急速にうつつの世界へ戻される。
目に入るのは見慣れた天井、そして心配な面持ちで見つめる、大人びた白龍
の顔。望美を掻き抱く白龍に、笑顔で大丈夫と声をかけて望美は床から
起き上がった。
「神子、本当に大丈夫?」
「うん。少し疲れただけだよ。やっと明日には…源氏と平家の和議
が成るんだもん…ちょっと気疲れしちゃったかなぁ。」
「神子……そうじゃなくて…。」
白龍は改めて、心配そうに望美の顔を見つめ、何かを口にしようとした。
しかし、望美は柔らかく笑うと、白龍の唇にそっと人差し指を押し付けた。
それ以上言ってはいけないという合図だ。その合図を理解した白龍は
心配そうな眼差しのまま、口を噤む。
「あと、白龍も大きくなったんだから、勝手に私の寝所に入ってきちゃ
だめだよ?それにあんな風に起こされたら、私はいいけど譲君に
見られたらすっごーーーく怒られちゃうんだから!」
「うん…譲に勝手に部屋に入っちゃいけないって言われた…」
「譲君、怒ると蜂蜜プリン作ってくれなくなっちゃうよ?」
「……それは困るね。」
「でしょ?じゃあ、これからお着替えするから、白龍は部屋の外に
出てもらえるかな。」
「分かったよ…神子……でも、本当に、無理しないでね?」
笑顔のまま、白龍の背を押して部屋から追い出すと、望美は夜着を脱ぎ、
衣を身につける。最後に陣羽織をはおり、剣を腰に差すと望美は大きく
息を吐いた。
「ねぇ、知盛。貴方は言ったよね。太刀を抱かぬ俺に聞いてみろって。
だから……今から、聞きに行くよ。」
次項
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