約束



「青天、死すべし……今、まさに黄天の時、ねえ。確かに……今日は、やけに空が黄色いな」
 晏而が空を見上げると、昼の最中にも関わらず、日が落ちる時間が近づいて来たかのように
空の色がやけに暖かい。晏而は、ゆるゆると視線を空から己が手に落とし、深く一度息をはいた。


「ああ、そうだ。約束。あんたと約束……したんだ」




いろいろ覚束ねぇ女だな……それは、初めて花を見た晏而が一番最初に受けた印象だった。
打算がある女の弱さとはまた違った、しかし何故か男の興味を引く不安定さ。歳の割りには
どこか子供っぽいのかな、と抱いた印象に落とし所をつけて、晏而は花の話を聞いたのだ。

すると、その覚束ない娘は、南華老仙の弟子だといい始めた。これは頭の方が……と
一瞬思ったものの、上手くいけば儲けもの、失敗してもまあ、いろいろと……従来の悪い癖が
疼いた安而は、花を太平道の集落に連れて行ったのだった。しかし、いざ太平道に合流すると、
花は奉高の町を無傷で落として見せた。しかも、晏而が一旦逃げ出したのにもかかわらず、
独りでことを成し遂げようとする強い意志を見せて。


 そして、それが全ての始まりだった。



「よう、道士様。それ、残すのか?」
「あ……晏而さん。丁度良かった」


晏而が炊事場当番の仕事をこなしていると、夕餉を終えた花が自分の膳を片付けに来た。
そんなことは他の女子供にでも任せておけばいいと周りの者は皆、花に言うのだが、それでも
花は頑なに毎回食事を終えると自分の膳を炊事場まで持ってきた。そして、最近その度に花の
顔が曇っているのを、晏而は見逃さなかった。


「この果物、他の皆さんの食事には付いてない……ですよね?」
「ああ、李か」


花の膳に残されていた李は、確かに花のみに付けられたもののようだった。晏而が膳を用意した
時には付いていたなかったのだが、誰かが途中で付け足したのだろう。花の導きにより奉高で
勝利して以来、太平道の集団に対する眼差しが変った。ただのならず者の集まりではなく、
正しき道を求めるために立ち上がった集団へと……それに伴い、皆の食事も格段に良くなった。
それまでは日に一食さえもこと欠く有様で、剣を取れぬものには特に多く皺寄せが行った。
戦える男たちを先に食わせねばならぬからだ。それ故に、勝利を導く道士である花に感謝を
覚える者は少なくない。きっと、その感謝の一環として花の膳に李を付け加えたのだろう。


「嫌いだったか?」
「え?その、嫌いとかではなく……私だけ、特別っていうのが……なんか」


そう言って俯いた花は、食器を洗い始めた。膳を片付けるだけでは飽き足らず、花はいつも
食器洗いまでしていた。こっちが固辞しなければ、晏而がこなしている様な当番でさえ、花は
厭わずにやり始めるだろう。皆を導く道士様であるにもかかわらず、だ。晏而は自分の仕事の
手を止め、花が取り置いていた李を手に取った。


「じゃあ、俺がもらっちまおうかな」
「ってあーーもう、晏而さん!」


花に許可を得ることもなく、晏而は李を頬張った。途端に、強い酸味が口いっぱいに広がる。
どうやら見た目よりも熟れてなかったようで、晏而は直ぐに口の中に入れていた李を吐き出した。


「すっぺーーーー!!」
「もーーやだ!晏而さん汚いよ!!」
「悪りぃ悪りぃ。でも、全く熟れてねえぞ、この李!」
「見た目はおいしそうだったんですけどね。きっと晏而さんが勝手に食べちゃった天罰ですよ」
「まさか、道士様……仙術で俺をハメたのか?」
「そんな訳ないですよ!李をすっぱくする仙術なんて、聞いたことがないし、誰も得しないですし!!」


晏而があまりにも真面目な様子でそんな事を聞くので、思わず花は笑ってしまった。
そんな花の様子を見て、晏而も淡い笑みを浮かべる。


「やっぱ道士様は、笑ってた方がいいな」
「晏而さん……」
「食事の件なら、周りの奴に言っておく。だけどよ、まあ、あいつ等も良かれと思って
 勝手に添え物してんだ。悪く思わないでくれよ」
「悪くだなんて……思ってないです。ただ、私だけ特別扱いされるのがちょっと嫌なんです。
 前に比べたら、皆食べるものもよくなってきてるけど、全体的に足りている訳じゃない。
 小さな子供だって、働いている最中、私だけ楽で、私だけ食事も特別でって、凄く気持ちが悪い」
「そりゃ、道士様が特別だから仕方ねえだろ」
「そんな……」
「道士様は、俺たちに光を与えてくれた。今まで、得ることなど到底諦めていた希望を。
 先に与えてくれたのは道士様だ。それに対して、俺たちができることを、できるだけ果たしたい。
 そう思うのは変なことじゃねーだろ?」
「でも……」
「でもも、へったくれもねーよ。あんたはそのまま受け取ればいい。道士様としてさ。
 それでも何か心がとがめるなら、俺に言え。あんたのそういうところ、最初から知ってるの俺か
 季翔ぐらいだからな。まぁ……季翔に言ってもどうもならねえから、話すのは俺だけにしとけ」
「晏而さん……ありがとう、ございます」


ぺこりと礼をした花の様子に、晏而は強面の顔を緩めた。そう、だからあんたは気になって
仕方ないんだという言葉を飲み込んで。優遇されて喜ばない奴なんていないだろう。それが積もりに
積もって腐った官吏を生み出してきた。だが、花は……そういう扱いを受けると、少し不安そうな、
悲しいような、例の晏而の気を引く表情を見せる。話す言葉は強いのに、どこか不安定な花を
守ってやりたい。そんな今まで持ち得なかった気持ちが、自然と湧き上がってくるのだ。


「まあ、いいってことよ。感謝してもし足りないなら、これから、ちーーと酒でも飲みながら、
 話の続きを伺ってもいいけどよ」
「もーー、晏而さんそればっかりなんだから」
「そればっかりとはつれないねぇ……って無駄口叩いてる場合じゃなさそうだな」


炊事場の外から、晏而の名を叫ぶ季翔の声が聞こえてくる。いつものアホな呼び方ではない、
緊迫した呼び方に晏而は凶悪な顔を一層ゆがめて、厳しい眼差しを見せる。先ほどまで笑みを
浮かべていた花も、晏而の様子を見て一瞬にして面差しが曇る。


「晏而さん……」
「なあに、青洲の男は強いからよ。ちっとやそっとのことじゃ死なねえよ。……道士様のことは、
 必ず守ってやるから。俺、あんたより先に死ぬ気はねえよ」


 そう、約束した。


「っていう訳でよ、洛陽が落ちたら答え、聞くから」
「あ、晏而さん。私……」
「だーーかーーらっ!答えは、後でいいって。多少の期待、持たせてくれたほうが働けるってもんだろ?」


洛陽を攻める前日、晏而は一つの掛けに出た。花に、自身の思いを打ち明けたのだ。
花と共に道を歩みたいと。湧き上がる思いを、ただ、真っ直ぐに。花の表情は夜陰に紛れて、
よくは分からない。晏而の言葉に驚いているのは間違いないようだったが、その声音からは
否定的な色を見つけることはできなかった。そんな事実に、晏而はほっと息を漏らす。


「太平の世のために、そして、あんたのために。洛陽は必ず俺たちの手で落とす。
 約束するぜ、道士様。いや……花」
「はい。洛陽を落としましょう。皆が幸せに暮らせる世界を作るために」


晏而の力強い眼差しに答えるように、花も笑みを浮かべて頷いた。


そして翌朝。運命の日、決着は瞬く間についてしまった。腐りきった都は、内部からの裏切りによって
あっさりと最期の時を迎えたのだ。ついに宮殿に火が回り、栄華の証はその最後に相応しい業火に包まれた。

それで、すべてが上手くいく。上手くいった、はずだった。

火の廻る宮殿の中、天子の元を目指した花たちだったが、途中で赤子の声を耳にした花が集団を離れた。
信徒の誘導を花に託された晏而だったが、花を一人で行かせることなど出来る訳がない。
先導を季翔に任せると、晏而は花の後に続いた。そして、今にも燃え落ちそうな部屋の中から、
赤子を一人見つけ出す。早く部屋から離脱して、皆の元へ……しかし、晏而と花に立ちはだかる影が、ひとつ。


「賊めが!ここは天子様がおわす宮殿だ!下賎は去ね!」
「ちっ邪魔くせえな!!」


晏而は兵士の姿を認めると、瞬時に剣を抜いた。そして、間髪入れずに、敵兵に斬りかかる。


「道士様、行くぞ!!」
「はいっ!!」


兵士を一人倒すと、晏而は花の手を引き、中東門を目指した。焼け落ちる宮殿からなんとか脱出する。
すると、辺りは逃げ惑う人々で満ち溢れていた。赤子をしっかり抱き締める花を庇いながら、
晏而は避難民の人波に紛れて城外を目指す。


「道士様、あとちょっとで中東門だ。門をでりゃ、すぐに皆のところに合流できる。それまでの辛抱だぜ」
「はい……赤ちゃんも、もうちょっと頑張ってね?」
「うぁあ……あああ」


花が腕の中に抱いた赤子に声をかけると、赤子はわずかに笑った。それまでの命からがらの状況から
脱したことを、赤子も理解したのだろうか。やがて、花と自分の間にもこのような赤子ができて、太平の
世の中で暮らすことができる日が来るのだろうか……そんな思いが晏而の胸に去来した、その時。
晏而の背に鈍い衝撃が走った。


「逃がすか、この賊がああああ!!」


痛みをこらえて、晏而は剣を引き抜き、振り返りざまに一撃放つ。重い手応えの先には、先程斬り倒した
宮殿の兵士と同じ甲冑を身に付けた兵士が、憎しみの篭った眼差しで晏而を睨み付けていた。宮殿から
追いかけられていたのだろう。最後の最後で追い付かれた己の不運さに、晏而はひとつ舌打ちを漏らした。


「ちっ……付けられてたのか。あーあ、しつこいねえ。男に追いかけられたって嬉しくもなんともねーんだけど」
「黙れ、この屑が!!」


挑発するような軽口を叩いた晏而に、件の兵士は気違いじみた罵声をあげる。眼前の男は宮殿仕えの
兵士だったのだ。相応に出自も良く、優遇されていたのだろう。それが、反乱によってすべてが壊された。
目の前の兵士はそんな恨み辛みが籠った眼差しで晏而を睨み付けてる。きっと、地べたに這いつくばって
いた時の晏而が 、官吏を睨み付けていた時と、同じ眼差し。そう揶揄してやろうと晏而は口を開きかけたが、
間をおかず疼く背中の傷が、晏而の口を封じ込めた。


「つっ…無駄口、叩いてる余裕は……ねぇ、か」
「あ、晏而さん!」
「道士様、先に行け」
「でも、背中から血が!!」
「は、掠り傷だよ、こんなもんは。あんたがいたら足手まといだ。振り返らずに……走れ」
「……わ……わかり、ました。晏而さんも、必ず」
「ああ、分かってるって。さっさと片付けて追いかける」


花は一瞬躊躇ったものの、晏而の言葉を受けて全力でその場から逃げ出した。晏而の言うとおり、
花は足手まといにしかならない。そう花は理解したのだ。後顧の憂いがなくなったことを確認すると、
晏而は最後の力を振り絞って震える手に力を篭めた。


「悪りぃけど、俺も忙しくってね。果たさなくちゃならねえ約束があるからよ!」




「あんた……と…約束、したのに……。はは…。最後の、最後で……ドジ……踏んじまったな」


晏而は凶悪な面を僅かにゆがめて、笑みを浮かべた。そして、もう剣を握ることはおろか、ろくに
動かなくなってしまった己が手をぼんやりと見つめる。手負いのまま、何とか兵士を倒したものの、
最後の最後で一太刀、兵士の剣が晏而の腹を掠めた。晏而はじわじわと腹から滲み出る血を
抑えるように手を当てたものの、それは大した意味を成さず、最早痛みの感覚すらない。


「でも、俺は……あんたが生き残れば……あんたがいれ…ば…俺、は」


 たった一つの約束だけは、守ることができた。その最期の言葉は、黄天の空の下、喧騒の中に解けて消えた。









私は、晏而さんと約束をした。洛陽が落ちたその後に、告白の返事をするという約束。
他にも、沢山の約束をした。晏而は、私を守ってくれるって。私より後に死ぬことなど
ないって。約束してくれた。それから、一番大切な約束。いつか、必ず太平の世を作る。
皆が平和に暮らせる世界を、私達の手で作るんだって、そう約束した。

洛陽が落ちた、あの日。

晏而さんは、宿営地に帰ってこなかった。でも、ずっと、待ってた。
返事、返すって約束をしてたから。晏而さんは、約束守ってくれる人だから。

だけど。

本当は、分かっていた。果たされる約束と、果たされない約束があることを。
本の力で変わる未来もあれば、変わらない未来もある。
そして、私と晏而さんの未来は、最初から……なかった。

でもね。

それでも、ね。

私、晏而さんと約束したかったんだよ。洛陽が落ちた後にと夢見た、
私と晏而さんの未来のことを。

だから。

私は、果たされぬ約束を胸に、本の頁をめくる。この時、この場所で。
私が出来ることは全てやりつくしたのだから。私は、前に進まなくてはならない。
これから、果たすべき……いいえ、必ず果たさなくてはならない、約束を
かなえるために。晏而さんがいない、遠い未来だとしても、必ず……かなえる。その為に。


大きな決心と共に、彼女が抱いた本がまばゆい光を放ちだす。
本を抱きしめる彼女の腕は、愛しい誰かを抱きしめる腕に、よく、似ていた。