お前はいいねぇ。文若さんに可愛がってもらえて。
私だって……そんな風に、名前を呼ばれてみたいのに。



『猫と文若』


「……今日はやけに声が近く感じるな」


文若は不意に顔を上げると、書面に落としていた視線を窓際に送った。
所は、文若の執務室。今は、花がお使いに出かけており、部屋には文若一人
しかいない。文若は辺りを見回すと、声の主を探すべく、朝から座り続けていた
椅子から重い腰を上げた。


「おい、何所に居るんだ……姿を見せろ」


一匹の子猫が、執務室の前の庭に居つくようになったは、つい先日のことだった。
どこからか迷いこんで来たのだが、使用人たちがえさを与えた所為か
本気で居ついてしまったらしい。えさは普段の食事の余り物をやっているようだし、
多少にゃあにゃあ鳴かれるぐらいで取り立てて迷惑を被っていない文若は、
子猫の事を放っておいた。それでも、基本的に神経質な性質の文若を気遣ってか、
使用人たちは子猫が文若の執務室に近づかないようにしていた。

故に、今まで文若はその子猫の事を見た事がなかったのだが、毎日のように
花が子猫の動向を楽しそうに語るので、すっかり子猫を見知ったような気に
なっていた。だから文若は、やけに近くに感じる声の主を……花がかわいがっていると
いう子猫を探して部屋の出入り口にむかったのだった。


すると。


「何所から入り込んだのだ、お前は……」


普段文若が休憩の為に使う寝台の上で、件の子猫が暴れ回っていた。小さな体で
ぴょいぴょいと跳ね回ったかと思うと、文若の枕の端についた飾りに小さな足で
ちょっかいをだしている。しかし、文若が近づくとまんまるの目で文若をにらみつけ、
少しばかり警戒している様子を見せた。


「ほほう、一人前に私の様子を窺うか」


文若は、子猫に向かってそっと指先を差し出した。子猫は、警戒しながらもゆっくり
文若に近づくと、文若の指先を嗅ぎ始める。そして、十分に文若の臭いを嗅いで
納得がいったのか、今度は急に文若の手首に頭こすりつけ、文若に甘えだした。


「……なんだ、さっきまで様子を窺っていたくせに。分からんやつだな」


口ではそう言うものの、子猫を見つめる文若の眼差しは暖かい。文若が子猫の
喉を指先で撫でてやると、子猫はとても気持ち良さそうな鳴き声を漏らした。
目を細め、にゃあと鳴く姿はとても愛らしく、その愛らしい姿を見つめていると
文若の脳裏には一人の女人の姿が蘇る。


「花」


文若は思わずその女人の……花の名前を口にした。文若の呼びかけに呼応する
ように、子猫も一度、「にゃあ」と鳴く。


「ふ……返事をしているのか?ならば、もう一度呼んでみよう。……花」


文若は再度、花の名前を口にする。普段は伝える事など出来ない感情を込めて。
慈愛に満ちた声で、花の名前を呼ぶ。すると子猫は、再度「にゃあ」と鳴いた。


「そうか、お前は花なのか。はな……」
「文若さん、呼びました?」
「!!!!!」


背後から掛けられた声に驚いた文若が、弾けるように後ろを振り返った。
すると、そこにはお使いを終えた花が、小首を傾げながら文若を見つめていた。


「お、お前いつからそこに居た?」
「え、今さっき帰ってきたところですけど……なんか名前を呼ばれたような気が
 したので」
「……気のせいだ」
「えーでも、文若さん『はな』って連呼してませんでしたか?」
「『はな』などと言ってはいない。はニャだ。そう…はニャだ」
「はにゃ?」
「……猫の名前だ」
「ええっ!文若さん、この子猫にそんな名前つけちゃったんですか?センス悪……」
「……」
「もっと可愛いのがいいですよ。例えばちゃとらんとか!ねー、ちゃとらん?」


しかし、花の呼びかけに子猫は答える事はなく、再び文若の枕の飾りで遊び始めた。
頬を膨らませる花を尻目に、今度は文若が語尾をごまかしながら「はな」と呼んで
みると子猫は「にゃあ」と一度鳴いた。


「ほらみろ、はニャの方が気に入っているようだぞ」
「えーーもう、何でそんな変なの気に入っちゃったのかな」
「……お前のつけた名前も大差ないと思うのだが」
「そんな事無いですよ〜」
「まぁ、どちらでも良い。仕事の邪魔になるから猫を執務室の外に出しておけ」
「はーーい。じゃあ、あっちに行こうね、はニャ」
「にゃ〜」
「……本当に、はニャがいいんだね。変な仔」


少しばかり納得がいかない表情を見せながらも、花は文若に命ぜられたとおり
子猫を抱いて執務室の外へ出た。文若は、花が完全に部屋の外に出たことを確認
すると、首を傾げて大きなため息を一つついた。


「はぁ……慣れぬことはするものではないな。大いに肝を冷やした。
 だがまぁ……あの子猫は花に良く似ている。変な所を含めてな」


そう一人ごちた文若の口元は僅かに綻び、その眼差しはとても優しく……
花が出て行った出入り口の方へ向けられるのであった。