虎退治



文若は夜半に仕事を終えると、自室へ下がる道すがら、月が見える東屋の方へ足を向けた。
今宵は満月。南天を渡る月を見てから部屋に戻るのも悪くないと、文若は不意に思い立ったのだ。
しかし、文若が東屋に近づくと、どうにも辺りが騒がしい。既に東屋には先客がいたようで、
賑やかに酒宴が開かれているようだった。


「これでは、風流もなにもないな。帰るか」


そう文若は独りごちると、東屋に背を向けようとした。しかし、先客の誰かが文若に気がついたようで、
酒宴の席から文若の名を呼ぶ大きな声が聞こえた。


「文若殿、文若殿!丁度良いところにおいでになられた」
「……はあ」


声を掛けられた文若は気乗りのしない返事を一つ返した。流石に、名を呼ばれて無視するほどの
非常識を持ち合わせていない文若は、眉間に一つ皺を寄せると酒宴の席に着くことに決めた。
どうせ既に宴も酣な状態なのだ。杯の一つでも口にしてから外せば、角も立たぬだろうと判断したのだった。

しかし、酒宴の席に付くと、文若は何故自分に声が掛けられたのか、直ぐに理解するに至る。
酒を飲み交わすために呼ばれたのでなく……


「花、お前……ここで何をしている?」
「あーー文若さん!ちーーっす!!あははは、おっかしーーー!!」
「……何が、おかしいのだ」


すっかりいい具合に酔っ払っている、自分の部下をどうにかしろという理由で声を掛けられたのだ。
思わず正直な感想を口にしてしまった文若であったが、状況を理解しようと辺りを見回す。
すると見覚えのある侍女が目に付いた。その侍女に厳しい眼差しを一つ送ると、侍女はこの状況に
至った話をおずおずとし始めた。

話を要約すると、たまたま通りかかった花に、酒盛りを始めていた文官の一人が遊び半分で酒を
飲ませたらしい。中身がどういうものかも知らぬまま、ぐいと飲み干した花はそれが気に入り、
ぐいぐい飲み続け……酒が切れると暴れだす始末。ただの女子供であれば、水でもぶっ掛けて
正気に戻すところであったが、何せ花は文若の配下の者。丞相の覚えもよい花に、手荒いまねは
できずここまで泥酔するに到ったのだった。


「なるほど、丁度よいところ、だったな。貴公らにとっては」
「まさか、酔うとここまでと虎になるとは露にも思わず……」
「……はあ。仕方ありませんな。確かにあれは私の部下だ。私に監督責任があるのでしょう」


深いため息を漏らすと、文若は酒瓶を抱えて暴れる花を見つめた。文若が目を放していた隙に、
花は相手をしていた文官の背をばんばんと叩き、何か駄々をこねているようだった。


「ああ、花様のお酒が切れたようです。新しいのをお持ちしないとっ!」


花の様子を見た侍女が、急いで席を立った。文若はその侍女の袖をつかむと、急く侍女に声を掛けた。


「酒がないと、まずいのか?」
「はい。桂花の甘いお酒を好まれまして。あれがないと大暴れなされます」
「お、大暴れ……それはまずいな。……分かった。その酒を瓶に満たし、私のところへ持って来い」
「かしこまりまして」


酒瓶を満たした侍女が戻ってくると、文若は早速酒瓶を受け取り、花に声を掛けた。


「花、酒はこっちだぞ」
「あまいやつ?」
「ああ、甘いやつだ。ほら、こっちへ来い」
「ふああああーーー!」


文若に声を掛けられた花は、奇声を発しながら、文若に駆け寄った。花は文若の手から酒瓶を
奪うために勢い良く飛びついてくる。が、しかし。寸でのところで文若は花の攻撃をかわし、
酒瓶を花の手が届かない高さに掲げ上げた。その為、花の攻撃は空振りに終わる。


「おお……!!!」
「ふーーーーー!!」


手際の良い文若のあしらいに、周りから感嘆の声が上がる。そして、同時に花から苛立ちの篭った
息が漏れる。花は獲物を奪われた獣のような眼差しで、文若を見つめていた。


「……この虎は私が貰い受けましょう。それでは。……花、こっちだ」
「ふあーー!!!」


文若は花の興味が自分に完全に移ったことを理解すると、酒瓶で誘導しながら花を東屋から引き離した。
そして、上手く攻撃をかわしながら花の自室へ誘導する。


「ほら、そろそろ遊びも仕舞いだ。部屋で休んで正気に戻れ」
「……」


だんだん意識が薄くなってきたのか、花に先ほどまでの勢いはない。文若は何とか花を部屋の中に入れると、
更に寝台の方へ花をおびき押せた。部屋の中に篭めればこれ以上の被害は出ないだろう……
そんな安堵が一瞬文若の脳裏によぎった。その瞬間。先ほどまで緩慢な動きを見せていた花が、
瞬時の隙を見逃さず、猛然と文若に襲い掛かった。


「うあ……っ!!」


花の攻撃に気が付いた時には既に遅く。文若が何とか酒瓶を渡すまいと急いで振り上げたところ、
勢いが過ぎて中身が全部飛び出してしまった。そして、飛び出した酒は頭の上から見事に文若に降りかかる。


「っ……。花っ!!いい加減にしろ!!」


とうとう、文若の堪忍袋の緒が切れた。むせ返るような甘い香りに、文若は一段と眉間の皺を深くして
花を睨み付ける。そして、文若の予想では、文若の怒気に触れた花が大人しく反省をする……
はずだったのだが。目の前の虎は、獲物を台無しにされたことを理解すると、文若の怒気に恐れを
なすどころか寧ろ怒りに火をつけたようだった。一瞬、目を細くして何かを見定めたかと思うと、
文若の首元を狙って飛び掛ってきた。


「は、花っ!!!」


想定外の事態に、文若は成す術もなく花に押し倒された。酒によって分別もへったくれもない花が、
力いっぱい文若に飛び掛ったのだ。運よく背後に寝台があり、文若は寝台に倒れこんだ。
おかげで痛い思いをすることはなかったものの、気が付けば文若は押し倒された挙句に花に馬乗りにされていた。


「花、これ……やめんか……」


組み敷かれた文若は、何とか花をなだめようと声を上げた。しかし、夜も夜更け。あまり大きな声を
上げては騒ぎが大きくなる。しかし文若の控えめな拒絶は、野獣と化した花の耳に届く訳もなく。
花は、押し倒した文若の首筋に顔を近づけると、くんくんと鼻を鳴らした。


「お、おい……花……」


馬乗りにされた上に、自身の首筋に近づく花の様子を見て、文若の体温が一気に上がった。実を言えば、
花を押しのけることなどさほど難しいことではない。いくら虎のように獰猛になろうとも、花は女子供。
文若との筋力の差は歴然としている。だが、しかし……甘くむせ返る香りの中、触れる花の体温が
文若の思考を狂わせる。そして、甘い虎の牙が文若の首筋に、触れた。


「花……」


ため息を漏らすかのように、文若は小さく花の名を呼んだ。そしてその声に呼応するように、虎の牙はちろりと、
更に文若の首筋を甚振った。ぞくりと文若の背筋に甘美な悪寒が走った次の瞬間。虎は……ぱたりと寝落ちた。


「……花?……寝たのか」


意識を手放し、急に重みを増した花の様子に、やっと文若は正気を取り戻した。そして、気が付けば
すーすーと寝息を立てている花を抱きかかえると、寝台の上にきちんと寝かせてやる。
暫く、花の寝姿を見て具合が悪くなる様子がないことを確認すると、文若は大きなため息を一つ
ついてから花の部屋を後にした。


翌朝。


文若の執務室内に、鈍い獣のうめき声が響き渡っていた。声の主は、壮絶な二日酔いの花、その人だった。
朝一番で文若が昨日の仔細を花に問いただしたところ、どうやら最初の一、二杯飲んだところまでしか
はっきりとした記憶はないらしい。ただ、痛飲しすぎていろいろやらかしたという薄っすらとした記憶はあるようで、
二日酔いの頭痛や吐き気に関しては弱音を吐かず、うめき声をもらしたまま仕事をしていだのだった。


「……全く。これ、花。もう下がれ」
「で……まだ……おし…ご…と……」
「そのようなうめき声をもらされては、こちらの仕事が捗らん。どうせ、大した仕事ができる訳でもあるまいに。
今日はもう下がれ。あと、炊事場によって薬湯を貰って来い」
「うーーーでも……」


文若の言葉に、何とか引き下がろうとした花だったが、急にこみ上げるものがあったのか涙目で黙り込んだ。
そんな様子を見た文若は盛大なため息をつくと、犬でも追い払うような仕草で、しっしと花に向かって手を振った。
そこまでされては、流石に花もこの場にはいられない。深々と文若に向かってお辞儀をすると、花は執務室を後にした。


「本当に人騒がせな娘だな……っ!」


花が執務室から出て行く姿を視線の端で追っていた文若だったが、花が執務室を出た途端、不意に身を震わせた。
文若の首筋に、昨日の虎の牙の感触が急に蘇ったのだ。


「……どうやら、虎の牙は存外甘く、存外深い傷跡を残すようだな」


ぶり返した虎の牙の感触に文若は淡い笑みを浮かべると、そう独りごちるのだった。