無知と罪



文若にとって、知が足らぬ輩を蒙昧であると責めることなど日常茶飯事であった。
知が乏しき故に理路整然とした行動が取れず、役に立たぬ者が多すぎると何度思ったことだろう。
故に。今し方、自身が置かれている状況に文若は苦慮していた。淡い眠りから目を覚ましてみれば、
時はまだ夜半過ぎ。枕から僅かに頭を上げると、文若の目に窓に欠けたる月が覗いて見えた。

はて、自室から斯様な月が見えたかな……と訝しがったところで、文若は重要な事実に気が付いた。
ここは――自室ではない。慌てて当たりを見回せば、呼気すら感じ取れるほどの身近に良く知る
少女が一人、すやすやと寝息を立てているではないか。


「花っ……っ」


大声を上げそうになった文若であったが、辛うじて息を飲み込んだ。寝台に横たわる自分、その横に
寄り添うように眠る花。何故自身がこのような状況に陥っているのか、早鐘のように脈打つ心臓を
落ち着かせながら、文若は考える。

思い起こせば、昨夜のこと。孟徳の執務室に呼ばれた文若は、花と共に孟徳との会席に付き合わされた。
正確には花が呼ばれたのだが、丞相の相手をいろいろと足りぬ花ができるとは到底思えない。
そう考えた文若もその会席に付き合うことに決めたのだった。

しかし、いざ会席が始まってみると、花と孟徳はとても楽しそうに会話が弾んでいる。あえて中に
割ってはいるような無遠慮さも、気の利いた話を振れるような機転も持ち合わせていない文若は
無言を通した。そして、開く必要の無い口には、するすると酒が流れ込まれていく。

自分でも少し過ごしたかな、という自覚はあった。しかし、それでも文若は孟徳の部屋から退出する折、
花を自室まで送っていくことにしたのだ。夜も遅い時間、女人一人で出歩くのは芳しくない――文若は
常識的にそのような判断を下した。


と、いうところはまでは覚えているのだが、それから一向に記憶が無い。そして、今は花の寝台で
横たわっているということを考えれば、自分は酒を過ごしすぎて寝落ちしてしまったということなのだろう。
自分の不覚さを呪わざるを得ない……が、今の問題はそこではなかった。


「何故、私の真横で……無防備に……」


文若はため息を漏らすと、花を見つめる。月明かりに僅かに見える花の面差しは、なんの不安もなく
安らかな寝息を立てる子供そのもの。しかし、文若の寄り添うその身は紛うことなく女人のものだ。
花に触れられている場所が自然と熱を抱いたとしても、文若を責めるのは酷なことであった。

酒が残っているのか、いま一歩回らぬ頭で文若はいろいろ考えた。まず、第一にこのようなところを
誰かに見られたら、花の評判に傷がつく。嫁に行く前の身体だ。しかも上司と床を共にしていたとあらば、
色仕掛けで取り入っていると思われても仕方が無い。そして、第二に。何故もこの娘は、こんなにも安らかに
自分の傍で寝ているのか。貞操の危機を感じないのか……それとも文若に全幅の信頼をおいているのか。
さらに、それとも……


「私が、お前を襲うほどの甲斐性など、持ち合わせていないと思っているのか」


 文若の指先が、そっと花の身体へ伸びる。しかし、振れる寸前にその手は止まった。例え花がどれ程愚かに、
その身を投げ出していたとしても。花に触れてはならぬ。それが道理。この娘は孟徳から預かった部下だ。
どうして手出しができよう?文若の脳内で、理性の手綱をしっかり握った文若がそう答える。
だが、欲望の手綱を握った文若は囁くのだ。腕の中に捕らえた女を手放すと?他の男と楽しそうに談笑する
姿を見て、身を焦がすほどの想いに駆られた女だというのに?


「わ、私は……」


文若は伸ばした手をぎゅっと握り締め、眉間に深い皺を刻んだ。そして、花を起こさぬようにそっと寝台から
身を起こす。もし自分が、思慮浅い無知蒙昧ならば、花の全てを奪っていただろう。だが、そのような人の
道から外れたことなどできる訳が無い。

文若はゆっくりと寝台から降りると、花の様子を窺った。花はいまだ安らかに眠っている。何か楽しい夢でも
見ているのだろうか、口元には淡い笑みが浮かんでいるようにも見えた。その瞬間、文若の中で何かが爆ぜた。
一度は止めた手をそっと伸ばし、花の頬に触れた。ほんの僅かな時ではあったが……確かに、触れた。


「知らずに犯す罪と、知って犯す罪では……。……私の罪の方が重いのだろうな」


 そう独りごちると、文若は静かに花の部屋を後にするのだった。



時を遡ること、暫し。それは文若が目を覚ますよりも前のこと。

花は、文若をなんとか自分の寝台に横たわらせると、腕を組みじっと文若を見つめていた。まるで
文若の真似でもするかのように、眉間には深い皺を刻んでいる。


「さて、どうしようかな」


花の口から、そんな言葉が漏れた。しかし、悩み事の種は文若自身ではない。文若に寝台を貸し与えた
ことによって、花自身の寝る場所がなくなってしまったということだった。


「前に元譲さんが、文若さんは寝ちゃったら朝まで起きないって言ってたから……
 隣で寝ちゃっても大丈夫かな?」


運よく文若は寝台の端に倒れこむように眠っている。反対の端であれば、花一人ぐらい横になっても
大丈夫そうな場所があるのは確かだった。しかし、文若は枕が違ったぐらいでいちいち愚痴るような
細やかな精神の持ち主だ。起きたときに怒られたらやだなーという考えが花の脳裏に浮かんだが、
さりとて床で寝るには少々寒い。意を決して、花は文若と同じ寝台で眠ることに決めた。


「……やっぱ、近すぎるかも」


いざ床の中に入ってみると、思った以上にスペースの余力が無い。僅かに頬を赤らめたように見えた
花だったが、文若に向ける眼差しは以前肩を貸した時とは随分と違っていた。眦の紅は、恥じらいの所為
ではない。実は花も孟徳との会席の場でうっかりと酒を飲んでいたのだった。


「うーーん。でも近くで見る文若さんってかっこいいなあ」


普段ならば面と向かって言えないような言葉が、花の唇から零れ出た。そして、間を置かず花の指先が
文若の顔に伸びた。か細い指先が、文若の頬を伝い、唇を撫でる。文若は深く寝入っているのだろう。
花が触れても、目を覚ます気配を微塵も見せない。そして、それ故に、花の行動がだんだんと大胆になる。
まるで猫でも可愛がるかのように、伸ばした指先で文若の顎下を撫でた。流石にそれはくすぐったかったのか、
文若の眉が僅かによった。


「ふふふーー文若さん、かわいいーーー」


甘い声でそう呟いた花は、文若の胸元に顔を埋めると、頬を摺り寄せながら眠りにつくのであった。