「はあ……」


絢爛豪華な執務室の中で、部屋の雰囲気にそぐわない重いため息が一つ響き渡った。
ため息の主は夏候元譲将軍。孟徳軍の中でも、名を馳せる猛将である元譲であった
が、今、彼の面差しを見てその猛勇を想像する事は難しいといわざるを得ない。

相反して、その元譲と対面する彼の主……曹孟徳は、にこにこと満面の笑みを
浮かべながら、元譲に声をかける。 


「じゃあ、元譲。よろしくな!」
「はあ……」


先ほどよりも輪をかけて重いため息が、再び部屋の中に響き渡った。



裏・嵐の夜




事の発端は、朝議が散会した直後。元譲が満面の笑みの孟徳に声を
かけられた事だった。


「なあ、元譲。ちょっと時間あるか?」
「……ん?多少なら……あ、いや」


背後から声をかけられた元譲は、肯定の返事を口にしながら振り返った。
が、孟徳の表情を見た瞬間、言葉尻に否定の言葉を盛り直す。振り返った先に
いた孟徳が、満面の笑みでにこにこと元譲を見つめていたのだ。

花に言わせると、孟徳はいつもにこにこしていて優しいですよね〜という
事らしいが、この「にこにこ」が元譲および、文若に向けられる時には
大分意味合いが違う。

大体、孟徳が「にこにこ」しているのは基本的に女の前だけであって、
野郎相手にそんな笑みを浮かべる気色の悪いことはしない。それを、あえて
孟徳は元譲に向かってしているのだ。その笑みに含まれる意図……確実に
元譲が迷惑をこうむる内容……を想像する事は難くない。

そうそう見ない孟徳の笑みに『これは、非常にまずい』と、即、判断した
元譲だったが、時既に遅く。にこやかな表情を浮かべながらも、その実、
刃のような鋭い光りをたたえた孟徳の眼差しから逃れることはできなかった。


「ないなら、作れ」
「……退路はもとより無いのか。分かった、用件を聞こう」
「へえ、物分りがいいな元譲!じゃあ、詳しい話はこの後、俺の執務室で」


先ほどよりもさらに上機嫌な笑みを浮かべた孟徳は、軽やかな足ぶりで
自分の執務室へ向かった。そして、その背後に続く元譲の足取りは底なし沼に
沈み込むが如し。執務室へ向かう道すがら、元譲は火急な用事で呼び止められ
ないかと奇跡を願ったが、生憎そんな奇跡は起こらず、孟徳の執務室へ到着した。

部屋に戻った孟徳は、直ぐに侍女に茶の用意をさせた。そして、持て成しの
用意が済むと、人払いをし、部屋には元譲だけが残される。


「で、早速だが。ちょっと頼まれごとをしてくれないか、元譲」
「断る」
「おいおい、内容を聞く前から断るのか?随分と気が早いな」
「聞かないでも分かる。どうせ、ろくな事ではないだろう」
「酷いなあ。長い付き合いじゃないか、頼まれごとぐらいいいだろう?
 ちょっと個人的な件だから、どうしてもお前に頼みたいんだけど」
「尚更、断る。長い付き合いだからな。お前がこういう頼み方をする時は、
 絶対にろくな頼みじゃない」


孟徳の頼み方に『これは、確実にやばい』と判断した元譲は、掛けていた
椅子から腰を浮かした。しかし、やはり時既に遅く。元譲が逃げ出すことを
察していた孟徳は、唐突に鋭い一撃を元譲に向けて放った。


「じゃあ、お前が花ちゃんをおんぶしてたこと、文若に言っちゃおうかな」
「な、なんで、お前、そ、それをっっ?!」
「んーーー?前に、許都で見かけた。あれ、結構前だったけど間違いなく、
 お前が花ちゃんをおぶってたよな」
「……」
「なあ、元譲。手に入れた玩具を直ぐ使って壊すのは子供だと思わないか?
 後々の好機に使ったほうが楽しい玩具だってあるんだから。俺は、ほら。
 大人だから。楽しみを後に取っておく事だってできる」
「……」


そう笑う孟徳を尻目に、元譲は無言のまま戦慄いていた。東屋で寝こけていた
花をおぶって部屋につれていってやった事があるのは事実だ。当時、こんな
姿を孟徳に見られたら、何を言われるか分からんなあ…とも思っていた。
しかし、後日そのような弄りを受ける事もなかったので、見られてないもの
だとばかり、思い込んでいたのだ。


「そうか……見られてたのか……」
「うん。俺が代わっておぶってあげたかったのになあ。……で、だ。
 お前が俺の頼みごとを聞いてくれないなら、この話を文若にする」
「な、何故、そんな事を……!」
「最終的な効果が一緒ならば、そっちでもいいかなあって思ってさ。
 ほら、文若と花ちゃん、さ。仲が進展してないじゃない?
 俺としては、それが凄く気掛かりな訳だ。だから、おんぶの件を
 文若に暴露すれば、あいつ案外独占欲強いから、嫉妬に駆られて
 一線を……ね?でもさあ、そうなるとお前と文若の仲が悪くなりそう
 で、ちょっと困るよね」
「困るよね、どころの話ではない!それに気掛かりと言うなら、
 余計な波風を立てるな孟徳!!」
「あはは、いや、本当に気掛かりなんだよ。彼女には幸せになって欲しいから」
「まあ、それはそうだが。二人とも銅雀台の政務で忙しいんだ。時が経てば
 落ち着くところに落ち着くだろう」
「時が経てば……ね。その時が経ったとき、二人が揃って無事でいる保障は?」
「それは……」


にこやかな表情が一瞬にして消えた孟徳が、元譲をまっすぐに見据える。
文若は文官とはいえ、かつて孟徳が危機に陥った時に城を任されたこともある。
中原の覇者に手を掛けた孟徳だって、今後何があるかは分からない。
だから、今すぐに。花が幸せな姿を見たいのだと、無言の孟徳の眼差しは
告げていた。そして、元譲はその眼差しに心が揺れた。基本的に他者に対して信を
抱かない孟徳が、あの二人に対してこんな思いを見せる。それが覇者として
良い事なのか、悪い事なのか判断がつきかねたが、元譲は孟徳にとって良い
変化だと思ったのだ。


「はあ、仕方が無い。頼みごとの内容を言ってみろ。文若に無駄に恨まれるのは
 かなわんからな」
「元譲ー、最初から受けていれば、余計な心労が増えなかったのになあ!」
「……玩具とやらの出しどころが、さらに悪くなるだけだっただろう」
「はは、ご名答!それじゃあ、詳細を話すから良きに計らえよ?」
「ああ……」


そして、孟徳から頼みごとの委細を聞き、相槌が深いため息に代わるまで
さほどかからず。こうして話は冒頭に戻るのだが、この後、嵐の中山賊姿で
一夜を明かしたり、それがばれて結局文若に恨みまがしい説教を食らったり……
と、更なる受難が待ち受けていることを、元譲はまだ、知らない。