「公瑾ってさあ、すっごく頭がいいのに、時々すっごい馬鹿だよねー」
「だよねー!」
「でもさあ、あの子のことになると、いっつもすっごい馬鹿だよねー」
「だよねー!!」



『後でいちゃいちゃするがよい』



とある武官の部屋の前。
中の様子を窺いながら。

部屋の前を行きつ戻りつするのは、一人の少女。

時折微かなため息をついては。
中に入ろか、入るまいか。
逡巡する事、小一時間。


「……もう、しょうがないよね。こうしないと……きっと公瑾さんの機嫌、直らない」


そう決心した少女が……花が、公瑾の部屋の戸を叩く。思い起こせば、
事の始まりは数日前の事。仕事に忙しい公瑾が、わざわざ花の為に会う時間を作って
くれたのだが……花がそれをすっぽかした。一応いろいろ理由はあるのだが、
すっぽかしたという事は紛れも無い事実で。それ以来、どうも公瑾の機嫌が悪い。
花と顔を会わせる度、柔和な笑みを浮かべて応対してくるのだ。端から見れば、
微笑ましく見えるかもしれないが、感情のこもっていない笑みである事など、
花にはすぐに察せられる。つまり、花が察せられる事が分かっていて、わざわざ
公瑾はそんな笑みを向けてくるのだ。公瑾の怒りの程が窺い知れる。

顔を会わせればそんな調子だし、もと居た世界ならばメールで謝ればいいかも
といった所なのだが、この世界ではメールが無いどころか花は文字すらかけない。
すっかり如何すればいいのか分からなくなった花は、尚香に相談しようと彼女の
部屋を訪ねた。するとたまたまそこに子敬がおり、花に策略を授けてくれたのだった。


随分と、変った策略を。


その策を聞いたとき、花は公瑾にかえって怒られてしまうのではないかと子敬に
質問したのだが、子敬曰く「公瑾殿とは、わしの方が付き合いが長いからのぅ
ほほほほ…」となごやかーーに反論された。もとより、無策の花にとっては選択の
余地はない。そういわれてしまったら、それを実行せざるを得ない……と思い
込んで今に至る。

一応花は覚悟を決めて公瑾の部屋の前までやってきたものの、やはりその策を
実行するには更なる覚悟が入る。そのため小一時間も部屋の周りをうろうろしていたの
だが、ここで徘徊していても意味が無い。覚悟完了!と心の中で叫んだ花は、
公瑾の部屋の戸を叩いたのだった。



とある武官の部屋の中。
外の様子を窺いながら。

目の前の書簡を読もうとしても、集中できない男が一人。

時折微かなため息をついては。
声を掛けよか、掛けまいか。
逡巡する事、小一時間。


「全く、入ってくる気があるのかないのか。はっきりしていただきたいのですが…」


苦々しく呟いた男が……公瑾がとうとう手にしていた書簡を片付けた。外の様子が
気になって、全く仕事にならない。ただでさえ管轄外の仕事の量が多いのに、これ
以上仕事を滞らせたくない……と自分の中で理由をつけて、公瑾は書簡を片付ける。

思い起こせば、数日前。公瑾は花に会うために、仕事を詰めて時間を作った。
仕事を詰めた上に、花に聞かせるため琵琶の調律も済ませ、部屋には芳しい香を焚き
準備万端整えて花を待った。

が。

こない。

花が一向にこない。

心配するあまり、公瑾は方々探し回った。そしてありとあらゆる所で「お熱いですな〜」
とか「これからいちゃいちゃなされるのか」だとか、答えるのが腹立たしい質問を
されたりした。仕事が忙しくてそんないちゃいちゃなどしていない上に、当の花の姿が
見えないのだ。お熱くなりようも無いではないか。笑顔で応対しつつも、心の中で罵倒
しながら公瑾はそれでも、花を探し続けた。しかし、そこまで探しても、花は見つからず、
公瑾の前に現れなかった。……とどのつまり、公瑾は約束をすっぽかされたのだった。

後で周りの者に確認したみた所、花にもそれなりの理由があったようだったが、
前の日からいそいそと琵琶の調律をしていた自分は一体……と思うと憤懣やるかたない。
故に、その直後花にあったとき……公瑾は思わず微笑みの面をつけた。つくろっておかないと、
いろいろな感情が漏れ出して、花にぶつけてきてしまいそうだったからだ。
花に会えなかった悲しみ、怒り、そして寂しさ……しかし、大の大人の男が訴えるには
どの感情も些か女々しすぎる。だから、公瑾は微笑みの面をつけてそれらを隠したのだった。

しかし、面をつけて取り繕った所為で、花がよそよそしくなった。自分が感情を
隠した事を察したのだろう。何か手立てを考えねばと考えているうちに、数日が経ち…
仕事が溜りに溜まった本日、部屋の外に花の気配がしたのだった。



「失礼します」


花は声をかけ、公瑾の執務室に入った。奥をみやれば、公瑾が書簡を片付けている
ようだ。公瑾は花の姿を認めると、一瞥しただけで視線を机の上の書簡に戻した。


「……仕事が溜まっているので、あなたのお相手をする事はできませんよ」
「はい……あの、邪魔にならないようにしているので……大丈夫、です」
「……はあ」


深くため息をつく公瑾の様子に、花は先ほどの決心が早速揺らぎそうになる。
やはり公瑾はとても機嫌が悪いようだ。何時にも増して、声が冷たい。しかし、
策は一つしかなく、ただ実行あるのみだ。花は、仕事をする公瑾の邪魔にならぬよう
背後に回った。公瑾は花を無視する事にしたのか、そのまま仕事を続けている。

(作戦、開始……!)

花は、背後からそっと公瑾の首に腕を回した。そして公瑾の頬に自分の頬をすり寄せる。
すると、公瑾は一度びくりと体を震わせた後、何時もよりも数段冷たい声で花に
問いかけた。


「……何の心算ですか」
「その、この前のお詫びで……あの」
「何ですか、はっきり言いなさい」
「お詫びでいちゃいちゃしにきました」
「は?」


花は背後から腕を回しているので、公瑾の表情をうかがい知る事は出来ない。
しかし、お詫びの内容を聞いた公瑾の返事は、明らかに拍子が抜けたような声だった。
怒るよりも寧ろ呆れられてしまったのかもしれない。……しかし、これが子敬の授けた
策だったのだ。

名づけて、「とりあえず何事もいちゃいちゃすれば解決するからのぅ……」作戦。
作戦も何も、タイトルまんま、ひねりも何もあったものではなかったのだが……
それでも、花はその策にすがった。すがるほか道がなかったからだ。しかし、
どうやら結果は惨憺たるものになったようだ。沈黙に耐え切れなくなった花は、
消え入りそうな声で、公瑾に詫びた。


「あの……本当に、ごめんなさい……さらに輪をかけて……ごめんなさい」
「……」


公瑾からのは、返事がない。……やっぱり失敗したじゃん、子敬さんのウソツキ!と
花の頭に恨み言が満ち溢れた瞬間、公瑾は背中を向けたまま花に声をかけた。


「あなたは、本当にお詫びをする気があるんですか?」
「え、はい。もちろん!!」


思いのほか、優しい声で公瑾が問いかけた。もしかしたら、公瑾は先ほどの行為を
然程怒っている訳ではない?公瑾の返事に一筋の光明を見出した花は、思わず「はい」
と大きな声を上げて返事を返す。


すると……。


「では、誠意を見せていただきましょう。花、こちらへ」
「せ、誠意?」


公瑾は振り返ると花の腕を取り、自分の前へ引き寄せた。そして、腰掛けていた椅子を
引き、自分の膝の上をぽんぽんと叩く。椅子を引く事で執務机と椅子の間に、隙間が
出来き丁度、その隙間の間に人が一人収まるスペースが出来る。


「早くこちらに座りになさい」
「あの、そこ……」


公瑾は再度、自分の膝の上を叩いた。紛うことなく、公瑾は自分の膝の上に乗れ
といっているのだ。花が戸惑いの色を浮かべると、公瑾は冷徹な眼差しを花に送る。


「あなたの誠意はその程度なのですか?本当に詫びる気があるのか、窺わしいものですね」
「わ、分かりました。あの……重かったら、ごめんなさい」


ここで仲直りの切欠を失う訳にはいかない。覚悟を決めた花は思い切って、
公瑾の膝の上に腰をかけた。しかし、公瑾の眼差しは冷徹なままで変りがない。


「ご、ごめんなさい。やっぱ重かったですよね。直ぐ降ります!!」
「別に重くなど無いですよ。あなた一人の体重ぐらい。それよりも、座り方が
 間違っています。分かりませんか?」
「ええ?……分からないです。どうすればいいんですか?」
「きちんと跨っていただきたい」
「へ?」


公瑾の予想外の言葉に、今度は花が調子の外れた返事を返す番だった。
跨る?公瑾さんの膝の上に?花は至極真面目な物言いでそう言い切った公瑾を見つめる。
しかし、公瑾の眼差しに揺らぎは無い。……本気だ。間違いなく、公瑾は本気で言っている。
その真摯な眼差しを認めた花は、おずおずと一旦公瑾の膝の上から降りると、改めて
膝の上に乗り直した。恥ずかしげに足を開き、公瑾の膝の上に跨る。すると花の足が
床に届かない所為で、不安定な体勢になって落ち着かない。


「あ……」
「不安定になるなら、私に抱きつきなさい」
「……はい」


公瑾に促されるまま、花は腕を公瑾の首元にまわした。ぴったりと公瑾と密着する
事によって足元の不安定さが気にならなくなる。公瑾も花の腰に手を回すと、
しっかりと力をいれ、花を抱きしめた。暫く互いに無言のまま、お互いの体温を
感じていると、花との距離がなくなった公瑾が、こつんと自分の額を花の額に
くっつけた。


「さて。それではいちゃいちゃして頂きましょうか」
「え……これで十分……」
「そんな訳ないでしょう。花、あなたは詫びに来たといっていたような気がしましたが、
 気のせいでしたか?この程度のいちゃいちゃでは、私にとっては詫びの一つにもなり
 ませんよ」
「でも……どうすれば、お詫びになるんですか?」
「それは、あなたが決める事です。ほら、花。あなたが思う通りに、私にいちゃいちゃ
 してみてください」
「公瑾さん……」


花を見つめる公瑾が微笑む。間近になった瞳の奥を覗き込むと、それは……
感情を追い隠す微笑ではなかった。心の奥底から花を欲する、公瑾の本心が込められた
笑み。その事を理解した花は、そっと公瑾の唇に自身の唇を重ねた。羽毛が触れるかの
ような、淡い口付け。それを受けて公瑾も同じように軽い口付けを返す。


「公瑾さん……」
「あなたが示した誠意の分だけ、私もあなたを許す姿勢を見せましょう。ですから……
 あなたももっといちゃいちゃしたいのであれば。……お分かりですよね?」
「もう……」


公瑾の言葉に花の頬が朱色に染まる。そして、本日もう何度目か分からない覚悟を
決めた花が、薄く開いた公瑾の唇に深く自分の唇を重ねようとした、まさにその時。


「おい公瑾っ!この書簡どうなってんだ……。……。」
「……はぁ」
「……仲謀さ……ん」


仲謀が入室の伺いも立てず、公瑾の執務室に入ってきた。仲謀は手に持った書簡を
振り上げたまま、一瞬体が固まった。しかし、状況を理解すると顔を真っ赤に染めて
公瑾に対して怒り始めた。


「お、お前ここを何所だと思っているんだっ!執務室だろうが、執・務・室!!
 務めを執り行う部屋だろう!いちゃいちゃするなら他所でやれっ!!!!」
「お言葉ですが、仲謀様」
「なんだっ!」
「まだ、いちゃいちゃしておりません」
「は?」
「まだ、いちゃいちゃしていないと申し上げているのです」
「こ、この状況で言うか?その口はっ!!」
「ええ、これはいちゃいちゃでは断じてありません」
「……そ、そうなのか?」


膝の上に花を乗せつつも、仲謀相手に表情一つ変えず返事を返す公瑾の様子に、
仲謀の方が気圧された。仲謀は手にしていた書簡を公瑾の机に投げ捨てると、
早く仕事に取り掛かれと言って部屋を出て行ってしまった。


「仲謀さん、呆れちゃった……んですよね」
「構いませんよ。どうせ私たちは何時でも何所でもいちゃついていると
 思われているのですから。本当は、全くいちゃついてなどいないというのに。
 あなたは私との約束をすっぽかし、挙句誰かに入れ知恵されるまで私のところに
 会いに来る事さえなかった」
「公瑾さん……あの……ごめんなさい。でも…入れ知恵とか、最初から分かって
 たんですか?」
「はぁ……私をなんだと思っているのですか。あなたがそんな風にしなだれる手管
 なんて持っていない事ぐらい、とうに分かっていますよ。そんな手管があれば
 もっともっと、あなたといちゃいちゃ出来ていたはずなのですから」
「……すみません」
「謝らなくても結構です。ただ、本当にすまないと思うなら」
「……思うなら?」


そこで公瑾は言葉を切ると、もう一度膝の上に抱きかかえた花を強く抱きしめ、
耳元で囁いた。


「今宵、私の部屋に来てください。誰かの策に嵌るのは腹立たしいですが、
 やはりあなたといちゃいちゃしたいのです」


囁かれた瞬間、花の頬が真っ赤に染まる。公瑾はその紅に染まった頬に、
軽く自分の頬を押し当て、花の熱を楽しむのだった。