優しい檻



その日、花の住まう部屋に孟徳が急に訪れた。地方への巡察などで城を空ける
日が続いた所為で間が開いたのだが、やはり会えぬ日が続くと酷く寂しい。
孟徳の来訪に破顔一笑した花ではあったが、孟徳が体調や仕事の様子を慮って、
僅かな時間睦みあった後、孟徳に自ら衣を着せた。

寝台の脇に孟徳を立たせ、衣を一枚一枚羽織らせる。侍女に習ったその
手はずも、随分板についてきた。しかし、不意に帯を調える花の手が止まった。
今、最後に強く帯を引けば孟徳の支度は整い、この部屋を後にする。そして
孟徳は丞相として、孟徳の世界へ戻るのだ。

孟徳が一度この部屋を離れれば、次はいつに会えるのだろうという寂しさが
花の胸にこみ上げた。しかし、同時に、かつて孟徳に同じような思いをさせて、
傷つけていたという痛みもこみ上げる。

あの時の自分は、まだ自分の思いに自信が持てず、無意識の内に傷つくことを
恐れて……当たり前のように、元の世界へ戻ろうと考えていた。

そして、きっとあの時の孟徳の「喪失感」に対する恐怖の方が、自分のもの
よりも遙かに大きかったであろうことも、容易に想像できた。あの時の孟徳に
とって自分と会えなくなるということは、一生、もう二度と……未来永劫
会えないということに、孟徳は気付いていたのだから。


「孟徳さん、最後に一回だけ、ぎゅっとしていいですか?」
「……うん?いいよ」


花は「寂しい」という言葉を口にしかなった。あれだけ孟徳を傷つけておいて、
自らそれを口にするのは酷くおこがましいように思えたのだ。代わりに、
帯を調える手を僅かに止めて、そっと、孟徳を背後から抱きしめた。

孟徳の背中から感じるほのかな熱で、花は寂しさを癒した。満ちたりると
言えばうそになるが、この方が花にとって都合が良い部分もあったのだ。
正面から表情を見られれば、花が思うことを瞬時に読み取ることなど、孟徳に
とっては容易いこと。こんな身勝手な思いを孟徳に悟らせてはならない。
そう思った花は、口に出せない思いを篭めて孟徳を抱きしめた。

しかし、いつまでも繁忙を極める孟徳を拘束している訳にはいかない。
孟徳には、花に費やせる時間など限られているのだ。それを理解している
花が名残を惜しみながら腕を緩めた瞬間、不意に孟徳の手が花の腕を強くつかんだ。


「花ちゃん……君は、そんな風に考えるんだね」
「え、孟徳……さん?」
「……俺は、寂しいなら寂しいって伝えてもらった方が嬉しい。君が寂しいと
 思うほど、俺を求めているって分かるからね」
「で、も……」


表情など読まなくとも、花の思いを読み取った孟徳は小さく笑う。以前は
得られぬ思いに焦りもしたし、傷ついたりもした。しかし、今はこうやって
こんな間近でふれあい、花を感じることができる。孟徳にとって、過ぎ去り
日々は、もやは全てどうでもよいことだった。……そんな風に思えるほど、
花が孟徳を満たしてくれたのだ。孟徳は、孟徳を捕らえる花の腕をそっと
撫でた。これは、孟徳を捕らえる優しい檻。優しくて……ずっと捕らえて
置かれたくなる、至福の檻。だから、孟徳は檻を壊すまいと、優しく言葉を
重ねた。


「わがまま、言っていいって言ったでしょ。そうしてくれると、俺が満た
 されるんだ。だから言ってみて、花ちゃんの願いを」
「……」
「はーーなちゃん!」
「……孟徳さんに会えなくなるのが、寂しいです。だから、もうちょっとだけ…
 一緒にいたいけど、お仕事忙しいのは知っているので、今日はぎゅっとしたから
 諦めます」
「全く、君って子は」
「も、孟徳さん!!」


孟徳は花の腕の囲みを振りほどくように身体をひねると、すかさず花の腰に
手を回した。そして、強い力で半ば強引に花を抱き寄せる。驚いた花が孟徳を
見つめると、孟徳は僅か張り目を細めて、花を見つめた。


「俺、願いを言ってって言ったでしょ?君の今の言葉は、願い事じゃない。
 君が下した、結論だ」
「でも……孟徳さん、忙しいし」
「それは否定しないけど、君がそんな顔をしているのを知っているのに、
 政務に励めっていうのは無茶な話だよ。忙しいなら、尚のこと。
 俺を思うなら……ね」


そういって笑うと孟徳は、涙を浮かべつつあった花の頬に軽く口付けを落とす。


「……孟徳さん」
「ん、なんだい」
「孟徳さんと、ずっと一緒に、いたい……です」
「うん、俺もだよ」


聞こえるか聞こえないかのささやきを、聞き漏らさなかった孟徳は優しく笑う。
そして、再度花に口付けを落とすと、腰に回していた手をゆっくりと滑らせ、
花の尻を撫でた。


「え、あの、孟徳さん?」
「ん?俺も一緒にいたいから。もうとちょっとぐらい大丈夫。……ということに
 決めたから」
「で、でも孟徳さん!!あの、さっき……」
「さっき?さっきは……何してたっけ?」
「……あ…の…。……」
「顔、真っ赤だよ。君のそういうところ、変らなくて大好きだな。うん、
 大好きすぎて、そう言う気分になる」
「も、孟徳さん!!衣が、乱れちゃいます!!」
「大丈夫、大丈夫。第一、まだ帯結んでなかったし。また、後でゆっくり直せば
 いいよ。花ちゃんが、また俺に衣を着せる気になったらね」


孟徳はそう言って花の反論を封じ込めると、そのまま花を抱きかかえ上げ、寝台へと
横たわらせたのであった。