ひとりはいい。
ひとりでいい。
ひとりがいい。
Grenzlinie
「く…。」
凛は思わず声を漏らす。
つい、声が漏れるほど、アーチャーの背中の傷はひどかった。幾筋もの裂傷が走り、もろに食らった
あたりは皮膚の色が紫色に変色している。出血は止まっているようだったが、放って置いて良い
ような怪我ではなかった。その傷をこの男は…こんな薄暗く冷たい地下室で一人、苦痛にもがき、
震えながら癒そうとしていたのだ。
凛は急いで薬箱の中身を取り出す。緑色のゼリー状で、一部鞭毛のような、繊毛のような…なんとも
例えが付かない毛が生えている不気味な透明の生き物…それが、凛のとっておきの実力行使の
アイテムであった。
「ところで、凛…」
「なぁに?アーチャー。」
「何を…するつもりだ?」
心なしか、アーチャーの声は震えているような気がした。思わず凛はくすりと笑う。
「遠坂家秘伝の、なんとかの吸出しをつかうのよ。なんでも、毒の吸出しには効果ばっちり
らしいから。」
「…なんとかって…というよりも、『らしい』という事は今まで使ったことが無いのか?」
「うん。だってそんなヘマやらかすような人間は遠坂家にはいなかったんだもん。」
「………本当に使うのか?」
心なしか、アーチャーの肩が震えているような気がした。凛はアーチャーの気が変わらないうちに、
とっとと、なんとかの吸出しをつかってしまうことにした。その為アーチャーの問いかけには
返答をせず、なんとかの吸出しの効果を最大限にすべく呪文を詠唱し始めた。
「…sofort wirken(効果てきめん)… 」
凛の魔力によってなんとかの吸出しの動きが激しくなり、膨張する。程よい大きさになったところで、
アーチャーの背中に貼り付けた。
「…っ!」
アーチャーの唇からもれる、僅かなうめき。なんとかの吸出しは遠坂家秘伝の名に恥じず、
アーチャーの体から怨嗟の呪を恐ろしい勢いで吸い上げ始めた…。
「…がぁっ!!」
「あれ?」
が、しかし。アーチャーが思わずうめいたのと、凛が思わず声を上げたのがほぼ同時。凛の魔力で
握りこぶし大の大きさになったなんとかの吸出しが、突如膨張しアーチャーの体を飲み込んだ。
なんとかの吸出し…もとい、吸魔蟲は怨嗟の呪を吸い上げ終わった挙句、アーチャー自身の魔力
貪り始めたのだった。
「ちょっと、やりすぎ!!!」
凛は慌てて蟲を払おうとするが、蟲は既にアーチャーを飲み込んでしまっており攻撃魔術は使えない。
しかし凛が思案している間にも、刻、一刻と蟲はアーチャーの魔力を貪り、膨張している。
「凛、離れろ…」
微かに、アーチャーの声が聞こえた。凛はアーチャーの声に弾かれるように、アーチャーから
後ろへ大きく一歩離れた。その次の瞬間…アーチャーの両手には、既に双剣が握られていた。
そして、まるで蝶が羽化するがごとく、体を包み込んでいたゼリー状の蟲を内側から外へ双剣で
切り裂き、その呪縛から抜け出した。切り裂かれた蟲の肉が飛び散り、開放された魔力が霧散する。
「アーチャー!!」
凛は思わず、アーチャーに駆け寄った。怨嗟の鏃を身代わりに食らった分を落とし前つけるどころか、
このありさま。これは、アーチャーに何と罵られても仕方ないと覚悟を決めて…しかし、アーチャー
は、凛に視線を合わせる事も無くそのまま瞼を閉じ…膝から崩れ落ちていった。そして、凛が抱き
起こそうとするよりも一瞬早く、小さな声で凛に哀願した。
「…ひとりに…してくれないか…」
思わず、凛の体は石像のように動かなくなった。そして、凛は目の前にいるアーチャーを見つめる。
怨嗟の鏃の傷は深く、アーチャーの体を蝕んだ。そのうえ、今の蟲に相当量の魔力を持っていかれた。
本来は実体化できるかどうかも怪しい程度の魔力しか、今のアーチャーには残っていない。
マスターである、凛からの魔力提供も間に合わないほど疲弊しているのだ。それでもアーチャーは…
ひとりにしてほしい、と凛に哀願した。
ひとり、ひとり、ひとり。あの丘での末期のように。
ひとり、ひとり、ひとり。決して振り返らなかった父親のように。
ふたりしかいないのに。ひとりがいいだなんて。
ふたりしかいないのに。ひとりでいろだなんて。
「んもーーーー!!!許さないんだからっっ!!!!!!」
凛の絶叫により、アーチャーは重たい瞼を微かに開けた。そして…自分に近づく白い肌と朱鷺色の
唇をぼんやりと見つめた。凛の行動が理解できなかったのだ。だから、ただ呆然と凛のされるが
ままになる。
凛はアーチャーにキスをしたのだった。
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