『誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。
心は燃えていても、肉体は弱いのです。』(マタイ 26:41)
Sin and Punishment(中編)
あの時、美しく死にたいと願った。
だから、臓腑を水で清め、毅然としたまま最期を迎えられるように、我が身を巌に縛り付けた。
騎士の誇りにかけて。孤独であっても、美しくありたいと願った。
なのに。今はどうだ。
レンタルビデオ屋の返却カウンターで針のような視線を浴びる自分。挙句、遠坂凛からはマニアック
呼ばわりだ。ランサーの心の中には、周りの人々の蔑みの声が聞こえるような気がしてならなかった。
変態!変態!!変タイ!!!ヘンタイ!!!ヘンタイヘンタイヘンタ…
「うがぁ!!!」
その瞬間、ランサーの中で何かが事切れた。一声咆哮を上げると、ランサーは振り返りざま凛の手を
取り、その体を勢いよく担ぎ上げた。そして、なにやら分からぬことを叫びながら、猛然とレンタル
ビデオ屋から走り去って行ったのであった。
「ちょ、ちょっと!!ランサー、離してよ!!」
凛は自分を担いで商店街を爆走するランサーに声をかける。しかし、全く聞いちゃいねぇ様子で
あった。ランサーの思考は明らかに混迷している…早い話、パニックだ。まさか、レンタルビデオ屋
で声をかけたぐらいで、このような結果になるとは…凛も予想外の出来事に困惑する。しかし、
いつまでもランサーに担がれて商店街を爆走する訳にもいかない。凛は、力いっぱいランサーの
束ねた髪を引っ張った。
「いーかげんにしなさい!!!ランサー!!!!」
「って、いてぇな!」
「痛いのはこっち!それに、恥しいから早く下ろしなさいよ!!」
「おう…」
やっと正気に戻ったらしいランサーは、ゆっくりと凛を地面に下ろす。そしてランサーは、まったく
もー!とでも言いたげな凛の顔を見て、不意に大声を上げた。
「お、俺は変態じゃねぇぞ!!!!」
「って、ちょっと!ランサー!!!」
「いや、ここはハッキリさせておかねぇと!俺の尊厳にかかわる!!断じてヘン…」
「こ、こんな街中でそんな大声だすんじゃないわよ!こっちが恥しいじゃない!!!」
商店街のど真ん中で、変態じゃないと叫ぶ男と凛。周りの視線が激しく痛い。針の莚というよりも、
極太剣山の上に正座&石畳ぐらいの苦痛が凛を襲う。…今度は凛がランサーの手を取って猛然と
商店街から走り去る羽目になったのであった。ダッシュすること、数分。人気の無い公園に二人は
到着する。とりあえず、凛はランサーをベンチに座らせ話を聞いてやることにした。
少し落ち着かせないと、また人気の多いところで暴走しかねない。
「ほら、これあげるから。食べてちょっと落ち着きなさいよ。」
「…おう。」
凛はレンタルビデオ屋に寄る前に買っておいた鯛焼きを、一つランサーに手渡す。本当は家で凛の
帰りを待つアーチャーへのお土産かつお茶菓子だったのだが、大盤振る舞いでランサーにやること
にしたのだった。ランサーは手渡された鯛焼きをハフハフいいながら頬張っている。あまりに
幼げなその食べ方に、凛は思わず苦笑いをし、自分も鯛焼きを一口頬張った。行列にならんで
焼き立てを買い求めたので、鯛焼きはまだ暖かく、その熱と極上の甘みが口の中にゆっくりと
広がってゆく。口福とはまさにこのこと。思わず、自然と笑みが漏れた瞬間、なにやら強い視線を
感じた。視線の元をたどると…ランサーがものすごい形相で、凛の鯛焼きを見つめていた。
「…欲しいの?」
「…おう。」
凛は、ふぅと一つ溜息を付いた。まだ一口しか食べていない鯛焼きではあったが、さすがに真横で
ものすごい形相でにらまれていては、おいしく食べることが出来ない。凛は諦めて、ランサーの方
に鯛焼きをずいと突き出した。
「しょうがないわね。あげる。」
「本当にいいのか!?」
「うん。」
「では、早速。」
ランサーは満面の笑みで、かぶりついた。
「うわ!ちょっとあんた!!!!!」
ランサーは鯛焼きにではなく、鯛焼きを持っていた凛の右手にかぶりついたのだった。
舌先が凛の指を舐め上げ、凛はあまりのくすぐったさに慄く。思わず、鯛焼きを手放しそうになるが、
その鯛焼きをランサーは空いていた左手で受け止め、さらに指を舐める。
「なに舐めてんのよ!!」
「ん…ダメか?……クチュ…クチュ……。」
「吸っていいなんて言ってないわよ!!」
「なんだよ、あげるって言ったのお嬢ちゃんだろ?」
「手を舐めていいなんて言ってないわよ!!鯛焼きあげるっていったのよ!!」
「俺、鯛焼き欲しいなんて言ってないぜ?」
そう言うとランサーはニヤリと笑った。凛も、あ!という表情になる。
『気をつけよう。暗い夜道と安易な契約』といったところだった。しかし、凛も二の轍を踏むような
ドジはしない。平常心を取り戻し、ランサーに告げる。
「私だって、手をあげるなんて、一言も言ってないわよ。」
「そうだったか?まぁ、どっちでもいいけど。俺は、お嬢ちゃんとこうしたい。」
「どっちでもいいって、ちょっとあんたそれずるくない…って!あ!!」
ランサーは凛の右手を強く引き寄せ、軽く抱きしめる。左手が鯛焼きの所為で封じ込められている
のできつい拘束と言うわけではないのだが、それでもちょっとやそっとの抵抗ではランサーの
体を付き放つ事が出来ない。ランサーは何が楽しいのか、ちょっといたずらっぽい瞳を爛々に
輝かせて、凛の瞳を覗きこむ。
「俺、変態じゃないから。」
「べ、別にランサーのこと変態だなんていってないじゃない。どんなAV見ようとも、
個人の趣味だし。そりゃーちょっとマニアックなセレクトだなって思ったけど。」
「だ、か、ら!アレは俺のセレクトじゃねぇっつの。マスターに返却して来いって命令
されたんだよ…。俺は至ってノーマルな趣味だっつの。」
「分かったわよ。ランサーはノーマル。それでいいんでしょ?分かったから、手、離して…」
「なんか、心からそう言ってないような気がすんだよなぁ…だから。」
「だから?」
「証明してやるよ。」
「証明って…え?」
凛はランサーの言っている意味を理解した。そして、なんとかこの危機を脱しようと手立てを考える。
しかし、ランサーの紅い瞳が凛の思考を停止させる。ただ、その瞳を真っ直ぐに見つめていただけで、
心を捉えられる。体は、動く。なのに、体が、動かない。意志が阻害される。もしや、これって…
「…あんた、魔眼持ち?」
「んあ?んなもん持ってねぇよ。まぁ、眼差しに力があるとはよく言われるけどよー。」
「はぁ。無自覚か…」
「別に何でもいいだろ?」
そういうとランサーは凛の首筋に顔を埋め、凛の髪の感触を楽しむ。柔らかい、甘い魔力に包まれ
て、ランサーは自然と笑みが漏れる。コレを幸福と言わずして、何を幸福と呼ぶのか。
ランサーがそそくさと鯛焼きを包みに戻し、左手で凛の背を撫でようとした瞬間。
一瞬にして、小さな世界の気配が変わった。
「凛から手を離せ、下郎。」
「はん。僕がしゃしゃり出てきやがって。」
凛が振り返った先には、憮然とした表情で弓を構えるアーチャーがいたのだった。
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